吹き出した汗が止まらない、そんな暑い夏だった。

 

 ここが自国よりも暑くなることは滅多にない。だが、地元よりも涼しいからといっても夏は夏だ。照りつける日差しはじりじりと肌を焼き、じっとしていても汗が身体を伝う。同じ屋台に並ぶ前の男は、見るからにフラフラと長身を揺らしていた。

 この列に並ぶ客の目当てはロブスターロールだ。芳醇なバターの香りを纏ったふわふわのパンに、上質なロブスターがこぼれんばかりにたっぷりと挟まれている。適当に並んでいるベンチに座って、思い切りかぶりつきたい。面倒くさい仕事を終わらせたばかりのリヴァイは、空腹の苛立ちと爽快感をないまぜにした気持ちで、ひたすら列の前のほうを睨みつけていた。明日は休みだ、さっさと食べたらホテルで何も考えずにゆっくりくつろぎたい。

 きゅうと情けない音で空腹を知らせる胃袋をそっと手のひらで押さえたとき、店員の大きな声が広場に響く。

「すみません、食材が切れたのでまた明日来てください」

「チクショウ」

 前に並んでいた男が膝から崩れ落ちた。小声で「クソっ! 腹減ってんのにツイてねえ」と憎々しい言葉が続く。それも、この国の公用語ではない言葉だ。年若い青年は移民か留学生か。しゃがんだままの低い位置にある肩をぽんと叩いて、唇を持ち上げた。

「残念だったな」

「本当に!」

 流暢な言葉で帰ってきて面食らう。振り返った顔があまりにも整っており、リヴァイはさらに面食らった。

「ここで食う最後の晩飯はここにしようって思ってたのに! 食いそびれちまいました」

「最後の飯って、じゃあ明日国に帰るのか?」

「そうです、明日の昼の飛行機で」

 ロブスターロールがどうしても食いたかったらしい。悲壮な顔から表情が動かない。

「見たところ若いが……仕事か? それとも留学か?」

「留学ですね、短期の。あなたは現地の方ですか?」

「いや、隣の国から来た。ただの出張だ」

「海外出張って、格好いいですね」

 何も持っていない手をぎゅっと拳に変えた男は、妙に緊張した面持ちでリヴァイに向き直る。

「あの……この辺分からないんですが、安くて美味い場所知りませんか?」

 なるほど、リヴァイも腹が減っている。長身の男に手を差し出した。

「食いっぱぐれ同士、一緒に食いに行くか。俺はリヴァイだ、呼び捨てでもなんでもいい」

「オレはエレンです。よろしくお願いします、リヴァイさん」

 がっしりと握り返されて、口端が釣り上がった。

「ホテルは空港の近くか?」

「そうです。トロント空港の北西にあるんですが……」

「あの辺、ホテルだらけじゃねえか」

 リヴァイが泊まるホテルも、エレンと同じホテル群の中にある。移動に気を使わなくていい気楽さを感じながらポケットから車の鍵を取り出した。ホテルで借りられるレンタカーを、すぐそばの駐車場に停めている。

「国際免許持ってるんですか?」

「少し前まで海外出張が多くてな」

「もしかして、ここまで車で……?」

「いくら隣の国だって言っても十時間以上もかけて走りたくねえ。お前と同じで飛行機だ」

 レンタカーの扉を開いて誘導すれば、違和感なくエレンが助手席に収まった。初対面の相手とのドライブはさすがに居心地が悪いらしい。リヴァイとて本来はそうだ。

 小さく縮こまる姿を見てふと気づく。

「荷物はねえのか?」

 カバン一つ持っていないのは不自然だ。もしかしたらロッカーにでも預けているのかと、エンジンを回す手を止めた。大きなテロがあってからは、ほとんどのコインロッカーが街から消えてしまったはずだが。

「ホテルに置いてきました。最低限ポケットに突っ込んどけば大丈夫かと」

「旅行者みてえに大荷物じゃ危ねえからか」

「それもあります」

 なるほどと、車をゆっくりと動かした。リヴァイの荷物も当たり前のようにホテルの部屋だ。景色がゆっくりと変わっていく。

「留学中はずっとホテルにいたのか?」

「ホームステイでした。市内ですがちょっと空港から遠かったので、今朝最後の挨拶を済ませて出てきたんです」

「空港は中心地から遠いからな」

「そもそも、市外ですしね。空港名に騙された気分です」

 拗ねたように唇を固くするが、目元が笑ったままだ。きっと楽しい期間を過ごしたのだろう。

「まあ、俺も最初は騙されたクチだ」

「ですよね!」

 楽しそうな笑い声が車内に響いた。話題は絶えることなく、穏やかに回り続ける。

「そうだ、たしかホテル名は――」

「あ、一緒じゃないですか! もしかして、レンタカーはホテルのやつじゃないですか?」

「そうだ。いちいち借りるのも面倒くさいからな。もうあのホテルじゃねえと泊まれる気がしねえ」

「確かに……あ、すげえ、湖!」

 他国から来た人間ならではの視点でこの地を語ることは少なかったのだろう。湖が見える道を走れば歓声を上げ、大きな公園を見るたびに「でっけえな……」と漏らしていた。

 時計の長い針が半分回り、腹が思い出したようにきゅうと鳴る。

「……鳴りました?」

「鳴ったな」

「音、可愛すぎませんか?」

 エレンが吹き出した直後に、ぎゅるると激しめの重低音が響く。

「……鳴ったか?」

「鳴っちまいました」

「音、勇ましすぎねえか?」

「胃袋の怒りを表す音ですよ」

 照れくさそうに眉尻を下げるが、胃袋は追撃の音を鳴らした。絶妙なタイミングに今度はリヴァイが吹き出した。

「笑いすぎじゃないですか?」

「普段はここまで笑わねえんだがな」

「嘘だ、腹鳴るだけでここまで笑われたの初めてですよ」

「お前が胃袋の怒りなんて言うからだろうが」

 珍しく笑ったせいで、すぐに頬の筋肉が悲鳴をあげた。

「あ、もしかしてここですか?」

 ウィンカーにいち早く反応したエレンが窓にかじりつく。案内した先は現地の人がこぞって行くチェーン店だ。

「ロブスター食いてえだろ」

 ロブスターと聞いて、分かりやすくキラキラと輝く瞳がこちらを振り返った。

「食いたいです! 本場のロブスター!」

「言っておくが本場は俺の国だからな」

「本場の人が案内する店なんて、さらに美味そうじゃないですか」

「チェーンだが、味は保証する」

 路道駐車の列を横目にビルの駐車場に車を停める。ビルの一階にある目的の店は自分たちの他に待っている客が何組かいるようだ。

「また駄目だったらどうしよう」

「屋台じゃねえから心配するな」

「信じますからね」

 鳴りそうな腹を撫でていると、人好きするような笑顔の店員が名前を呼んで店内を指さした。

 賑やかな店内を、エレンはきょろきょろと見渡している。特にちらちらと見ているのがロブスターが鎮座した水槽だ。どうやらお気に召したらしい。

 しかし席に座るやいなや視線はメニューに釘付けになった。

「食いてえものが多すぎて絞れねえ……」

「シェアするか? 今日が最後なら、悔いが残らねえようにしねえとな」

「いいんですか? リヴァイさんも食いたいものあるんじゃ……」

「俺はまだ日数があるからな。それに、実はこの店の本店はうちの国だ」

「そりゃあ味を保証するわけですね。じゃあ……これと、これ」

 エレンはロブスターのオーブン焼きとフライオイスターを指さした。どちらも分かりやすくメイン料理だ。注文するときはサラダとパエリア、さらに無料のパンを追加する。

「これぞシェアって感じですね」

「あんまりシェアしねえから、変な感じだ」

「リヴァイさんが誘ったんじゃないですか」

 エレンは顔をくしゃくしゃにして笑った。感情をだだ漏れにする顔は、安心感を誘う。

「ここでの最後の晩餐だと思うと、できるだけ付き合いてえじゃねえか」

「お人好しですか」

「そうでもねえよ」

「お人好しですよ。どこの馬の骨か分からねえようなやつと一緒に飯食ってくれんだから。ありがとうございます」

 改めて言われて、くすぐったい気持ちでテーブルを睨みつけた。