気が付くととぼとぼと家に帰り着いていた。ビニールではなく木で作られた扉を開けて、綺麗に室内に足を運ぶ。いつも履いているはずの靴を残しているくせに、最初に履いていたボロボロの革の靴が消えている。エレンが履くとでも思っていたのか。視界がじわりと歪んだが、自分が選択した結果だ。女々しく泣いてばかりはいられないと、袖口でぐい、と熱い水分を拭き取った。
つかつかと部屋の奥に進み、暗いからと雨戸を開けると、挟まっていたらしい紙がひらりと落ちてきた。
『ちゃんと部屋、綺麗なままにしてろよ』
見慣れた綺麗な字が、焦ったように荒れている。ハッとして家中の雨戸を開きに行く。
『一日一ページでもいいから、勉強進めろ』
『この不器用者』
『洗濯用のあの実、使い切れねえレベルでストックしちまった。すまねえな』
『寝る前に便所済ましておけよ』
『俺が守るわけにもいかねえから、風呂に火を焚くときはなるべく明るい時間を選べ。焚きすぎるぐらいでちょうどいい、熱けりゃ水を足せばいいだけの話だ』
『言葉足らずで単細胞の馬鹿野郎』
家中の雨戸だけではない。いたるところに置かれている。
『飯は無理矢理にでもちゃんと食え』
朝から書いていたのだろうか。それとも、寝る前に書いてあったのだろうか。外に放置したままの皿の下に、最後のメモが隠されてあった。
『楽しかった。ありがとうな。お前はもっと国語を学ぶべきだ。今日の課題は教科書、一二二ページからだ』
彼は追い出されて怒っているはずだ。それなのに、なんでなんだ。我慢できない洪水のような雫がぼたぼたと辺りを濡らしていく。ぐしゃりと紙を掴んで、皿を台所の流しに運んだ。何かして落ち着かないと、もう居ても立ってもいられなくなりそうだ。
洗ったあとは教科書を開く。今日の課題とやらをこなそうとして、情けないうめき声を漏らした。
『俺はお前が好きだった。クソみてえな野性児っぷりもバカみてえに前向きなところも、俺みてえな怪しいやつを受け入れるところも。クソみてえな世の中だと思って生きていたが、お前のお陰で久々に楽しいなんて感覚を思い出した。なあ、お前も俺が好きだろ。めでたく両思いだ。いいか、俺は絶対に帰ってくる。家も職も生活も手に入れて、必ずお前を迎えに来る。だからケツ洗って待ってろ』
椅子がガタンと後ろにひっくり返る。床がダンダンと鳴り、玄関の扉が壊れそうな音を立てる。熱くて苦しくて死にそうだ。ゴーストタウンを横目に全力で走って、川まで来てから落ち葉の上に膝をついた。馬鹿なことをしていることも、もう何にも間に合わないことも分かっている。エレンがすべきことは、リヴァイがいたころの日常を進めることと、書き置きの内容を守ること、そして、彼を信じてケツを洗って待ってることだ。
一人だと死ぬほど退屈なルーチンワークをこなして、リヴァイが昨日まで着ていた服を抱きかかえてベッドに沈む。本当は腹なんて減っていなかった。勉強だってなかなか集中できなかった。しかし、彼がやれと書き置きまで残しているんだ。やるしかないだろう。
偶然視界に飛び込んできた獲物に大ぶりのナイフをぶん投げる。年老いて硬そうな肉だが、しばらくぶりの大物だ。足を引きずり暴れ出した獲物に追撃して、動きが鈍くなってきたところで首筋を斬りつけた。
得意げに見せたい相手はもういない。ずるずると川まで引きずって、冷やしながら血抜きを行う。一人で捌ききって、そして全てをたいらげなければいけないのだ。畑にはカボチャがごろごろと実っている。改良した網には大ぶりの魚も掛かるようになった。
内臓は全てクーラーボックスに放り込む。初めてリヴァイと捌いたのも、同じようなサイズのイノシシだった。あのときはクーラーボックスがなかったために、川で洗うこともできなかった。家に水道がなかったために、井戸で念入りに洗わなければならなかった。今では乾かすために釣る場所も、燻製用の道具も、全て不自由なく揃っている。刃物だって、全部だ。
苦労しながら捌ききっても、これっぽっちも達成感を感じられなかった。毛皮を剥ぐ前に、引きずりながら家に戻る。台所で処理しているときに、ふとリヴァイの顔を思い出して唇を噛み締めた。
『飯は無理矢理にでもちゃんと食え』
季節外れの夏バテのように、食事が喉を通らない。それを見越して書かれた言葉に、エレンは縛られる。
『ちゃんと部屋、綺麗なままにしてろよ』
昼食後に片付けがてら掃除をして、風呂を焚きに行く。湯が温まると自分の身体を綺麗にして、ついでに洗濯も済ませてから深々とため息を吐き出した。
『一日一ページでもいいから、勉強進めろ』
教える人間がいないのに、どう頑張ればいいんだ。一人で行う勉強は、ほんの少しずつしか進められずにいる。嫌になるたびに国語の教科書をパラパラと捲った。
『必ずお前を迎えに来る。だからケツ洗って待ってろ』
「ケツ洗うってどうすりゃいいんだよ……そこも教えてくれよ」
首を洗うの誤用かとも思ったが、きっと違う。身体の清潔感だけが唯一、リヴァイがいるときよりも増していった。事あるごとに入浴しているせいで、タオルが一気にボロボロになりそうだ。
ひとりきりに逆戻りしてまだ三日だが、泣きすぎてもう涙が枯れた。悲しさも寂しさも増える一方だ。
この痛みも、今までと同じように慣れていくのだろうか。慣れる前に、会いたい。
自分一人だと、食べても食べても肉が減ってくれない。野菜と一緒に食べようと煮込んで、倍に増えたスープを見てげんなりとした。塩なしでの燻製肉はある程度しか持つことはない。
味に飽きたためにハーブを増量しようと川べりの森へと向かう。川の仕掛け網をスルーして、ひたすらぷちぷちとハーブを摘んだ。リヴァイが教えてくれた知識が、食卓をがらりと変えた。塩分は物足りないが、香りで誤魔化すのはなかなかに使える。
ハーブをたっぷり収穫した足で井戸まで向かった。そのまま畑に水をやって、まっすぐ家へ。汗を流そうと風呂を沸かしていると、がたりと不自然な音がした。野生動物だ。
凶暴な動物なら大変だと、ナイフをぎゅっと握りしめて表側に回る。玄関の扉は閉まっており、ひとまず安堵の息を吐き出した。窓から入る動物なんて、さほど警戒しなくても大丈夫だ。今は食料がいっぱいあるから、逃してやればいい。がらりと玄関の扉を開いて、目を限界まで丸くする。
「おかえり」
「……はや、すぎませんか?」
家も職も生活も手に入れてから戻ってくるはずの男が、シンプルでカジュアルな服に身を包んで立っている。驚きのあまり、まともな言葉が出てこない。
「急いだのと、運だろうな。なあ、エレン……ケツ洗って待ってたか?」
「風呂は、まだ……でも、毎日何回も身体洗ったんですが、ケツって」
リヴァイの手のひらが尻をやんわりと触った。セクハラ男のような手付きがくすぐったくて身を捩る。
「お前は何も分からねえだろうから……本能的に嫌だと、いや、違和感があった時点で言ってくれ」
「違和感ですか?」
「ああ、そうだ。そのかわり、イイときはイイと教えろ。できるな?」
リヴァイはエレンの手を引いて、まっすぐに寝室に向かう。開けっ放しの雨戸からはひゅうと強い風が拭いた。仰向けに転がされて、ギシっとのしかかるリヴァイが熱い目でエレンの顔を見ている。鋭い眼差しが目蓋に遮られた途端に、顔がぐっと近付いてきた。何を意味しているのか流石に分かる。そっと目を閉じて、柔らかい唇を受け入れた。
前みたいに、激しく口内を舌で犯されることはない。むにむにと優しく唇を食まれて、ついばまれる。動物同士のじゃれ合いのようだ。唇の柔らかさ、湿り気、ふわりと肌に当たる息遣い。全てが優しく生々しい。
うっとりとされるがままになっていると、表面をちろりと舐められた。前みたいに指でこじ開けられる前に、薄っすらと唇を開く。ぬるりと入ってきた舌は、暴れるのとは程遠い動きでエレンの身体から力をゆっくりと奪っていく。
舌がなぞる順番は前とさほど変わらないのに、ただひたすらに優しくて柔らかい。その分ゾクゾクと背すじが粟立ち、ふるりと肩が大袈裟に震えた。心臓がどくどくと鳴り、息が荒く乱れていく。気持ちよく、心地いい。
イイと教えるなんて、唇を塞がれたままでは不可能だ。なら、どうすれば。悩んでいるくせに、手のひらは無意識にリヴァイの背中を撫でていた。ぽんぽんとあやすように触って、するりと撫でる。
「イイのか?」
ふっと吐息が掛かる。小声で「気持ち、いいです」と囁いた。目を細めたリヴァイに唇をべろりと舐められる。そのまま舌は首筋に降りて、耳元に上っていく。口腔を散々犯した舌は耳に直接、卑猥な水音を響かせる。くすぐったくてゾクリと上半身を震わせて、肩にぎゅうとしがみついた。
がっくりと力を抜いた汗だくの身体が、エレンの身体にびたりと張り付いた。重みで息苦しいが、もたれかかられて幸せだ。
「風呂、入るか。入れるか?」
「入れます、っ……うおっ!」
立ち上がった瞬間にシーツに足を取られてがくんと膝が笑った。太ももがぷるぷると震える。
「立てねえなら、連れてってやるぞ」
子供のように連れられる図を想像してエレンの顔が渋くなる。恥ずかしいし情けない。
「オレはだてに山を駆け抜けて生きてないはずだ……!」
ベッドをごろりと転がって、ベッドではなく床に足を付けてぐっと踏ん張る。ぷるぷると震えながらも一歩一歩進んでいけば、徐々に動きが安定していった。
「逞しいな。だが……久々に世話を焼きたかった」
ぽつりと付け足された可愛らしい本音に、吹き出すのを必死で堪える。
「あとで焼いてください、世話」
「風呂入って飯食ったらすぐに出るんだぞ。風呂と飯ぐらいしかすぐに世話焼けねえじゃねえか」
「え、あ、えっ?」
そうだった。リヴァイはエレンを迎えに来たのだ。急いで出ないと人気のある場所に着く前に日が暮れてしまう。
「なんだ、嫌なのか」
訝しげな顔に焦って、手を振りながら弁明する。嫌なわけ、あるわけがない。
「嫌じゃねえ、嫌じゃないですけど、頭からすっかり抜けちまってました」
「エロいことしたからか」
エロいことイコールすけべなことで、えっちなことだ。性知識が小学生のまま止まっていたエレンは、心の準備なく上った大人の階段に一気に体温を上げた。
「そ、そうですよ! リヴァイさんのせいですから! 風呂入りますよ、急がねえと日が暮れちまう」
「お前クソ可愛いな」
「誰よりも可愛いリヴァイさんがそう言いますか!」
髪をぐしゃぐしゃに撫でるリヴァイに吠えれば、かくんと首を傾げられる。分からないといった面持ちが一向に解除されない。そんな大人を放置して、ぐんぐんと風呂場に進んだ。
熱めに沸かしたはずの湯はすっかり適温に冷めていた。身体を洗ってすぐ出ようとしたが、湯船に引っ張られる。
「久々にお前と浸かりたい」
下から上目遣いで言われて即ノックアウトした。積もる話があるのだろう。そんな心の準備をしていたが、どこがどう可愛いか、どんなところが好きかをただひたすらに語られている間にすっかりのぼせてしまった。
今までずっと気持ちを仕舞っていたのは二人とも同じである。リヴァイは一目惚れに近かったらしく、語れば語るほどに語りたい内容が増えていったらしい。
風呂から上がればリヴァイは料理、エレンは家を出る準備に取り掛かった。食いかけの肉が勿体無いと伝えれば、無言でクーラーボックスを差し出された。畑の野菜が勿体無いと訴えれば、ものすごく困った顔をされた。
「二度と来ねえわけじゃねえ。次の休みにまた来るから、手に持てない分は諦めてくれ」
ならばと、家にある国語の教科書と両親の形見代わりの家の鍵だけ持っていっくことにした。国語の教科書にはリヴァイが残したメモ書きを全て挟み込んでいる。渋い顔をされたがこの口の悪いラブレターは一生の宝ものだ。ボロボロのパンツや服は新しく買ってもらうことにした。これからは石鹸も洗剤も市販のものを使えるのだ。
準備を終えるのとリヴァイの料理が終わるのはほぼ同時だった。焼いた肉と煮込んだスープ。それだけではない。五年以上ぶりに見るパンがぽんと皿の上に並んでいる。
「うおおお……外の世界の食い物……!」
がぶりと頬張れば、様々な味と香りが複雑に絡み合っている。バターもだが、小麦の香りも五年以上ぶりだ。次にがぶりと焼いた肉に噛み付いて目を丸くした。塩味と甘味を感じる。
「調味料……!」
「塩だけだがな。お前、明らかに塩分不足だろ」
「塩だけなんですか? すっげえ美味いし、なんか甘くもあるんですが」
「甘味成分なんて入れてねえぞ」
何がなんだか分からないが、素材だけの味が生まれ変わったことだけは分かる。野菜とハーブを煮込んだスープも、同じように塩だけで生まれ変わっていた。どんどんと胃袋に入っていく。食欲が刺激されてやまない。
また戻るからと、皿は綺麗に洗って食器棚に収納した。外に出していた薪は濡れてカビがはえないようにと全て部屋の中に避難させた。雨戸も玄関も締めて、二人でゴーストタウンを横目に歩を進める。
爆撃で散らばっていた街は、エレンの家の修理を進めるとともに全てではないものの片付いていった。畑に水をやるとき以外、井戸を使わなくなった。代わりに歪なパイプがまっすぐ北に伸びている。
森に数個ある動物用の罠を回収して、川の仕掛け網から魚を逃がす。上流をまたいで獣道を進めば、大きい道路に車が停まっていた。
「乗るぞ」
「えっ、これリヴァイさんのですか?」
「なわけあるか、借り物だ。足元以外汚すなよ」
車の扉を開くのは、老夫婦の車の蛇を捕まえたとき以来だ。今思えばあの蛇は幸運をもたらす蛇だったのかもしれない。白蛇ではなかったが。
シガンシナは道路に出るために川や森を抜けなければならないのだが、道路に出てからもまた大変だ。細い山道を抜けて古いトンネルをくぐり、一番近い街に辿り着くまでに数時間。聞けばシガンシナの存在すら知らない者がほとんどだという。当たり前だ、直接行くための道路も、看板も何もないのだから。
シガンシナが爆撃されたときに、このマリアの街も同じく爆撃されたそうだ。多くの人が亡くなったらしく、大層な慰霊碑が立っている。当時は混乱していたせいか、ラジオの電池が残っている間は情報が回ってこなかった。
五年経った今も復興は完全ではない。痛々しさと凄まじい生命力が同居する街、マリア。しかしリヴァイが住んでいるのはさらに向こうのローゼ地方らしい。
車の中では絶えず会話に華が咲いた。風呂でリヴァイの独壇場を聞き続けたためか、まずはエレンの気持ちを余すことなく聞かれた。自分がどのぐらい好きか、いつから好きだったのか。何故リヴァイを追い出したのか、一人で過ごしているときはどれほど寂しく辛かったか。
流れで実は寝ているリヴァイに口付けたことまで引き出されてしまった。
「寝込みを襲うなんて、スケベだな」
「なっ! ど、どうせオレはリヴァイさんに対してスケベです」
からかわれるのに慣れず、毎回反応に困る。居直っても恥じらってもリヴァイは嬉しそうに目を細めていた。
エレンの気持ちを散々聞き出したあと、次はリヴァイの話だ。宝くじをすぐに金に変えただろうことは予想できているが、こんなに短期で仕事も住居も確保できるなんてエレンどころかリヴァイ本人も予想できていなかった。たまたま面接を受けた先が元々働いていた会社の上司が独立して社長をしていたらしい。
応接間で茶飲みついでにお互いに近況報告をすれば、一気に家まで用意される運びとなったそうだ。
「そいつにお前を連れてくるなら、正式に雇用する前の今がいいと言われてな」
「その人と仲良かったんですか?」
「仲がいいかと聞かれれば疑問だな。悪くはねえが、よくもねえ。しかし信頼できる男だ、味方ならば」
「気難しい人なんですか?」
「人当たりならば満点かもな。何考えてんのか分からねえようなやつだ」
得体の知れなさだけはしっかりと伝わった。悪い人じゃないならばそれでいい。しかし自分の知らないリヴァイをたくさん知っていそうで面白くない。
五年の月日では、世界は思っているよりも何も変わっていないらしい。テレビに出ている芸能人ですら、あまり変わってはいない。若者受けする歌手がちらほらと新しく出ているぐらいだ。文明が逆行しているようなところで過ごしていたせいで、エレンの中での五年の重みが他人と違いすぎていた。
車がゆっくりと停止して、リヴァイが大きく身体を伸ばす。
「着いたぞ」
「運転お疲れ様です」
車から外に飛び出して、目をきょろきょろと動かした。空が狭く建物が高い。テレビでしか見たことのない人口密度だ。マンションもコンビニも生で見るのは初めてだった。
「コンビニ寄るぞコンビニ」
近所に商店があったが、何故かコンビニとなると緊張する。こくりと無言で頷いてリヴァイの後ろを着いていった。購入するものはエレンのパンツのようだ。
「欲しいものはあるか? 食い物でも飲み物でも」
選択肢の多さに一瞬思考回路が焼け付いた。視界に入る情報量が多すぎる。ちらりと目に入ったものはパン。懐かしい気持ちが胸中に広がっていく。
「ジャム……ジャム塗ったパンが食いたいです」
「なら、帰ったらトースト焼いてやる。ジャムはいちごか? りんごか? マーマレードもあるな」
「りんごジャムがいいです」
母親がコトコトと煮込んだジャムを焼きたてのトーストに塗ったものが好きだった。淹れたての紅茶とトーストで毎日朝がはじまっていた。
「あと、熱い紅茶」
「それならすでに買ってある」
かごの中に食パンとりんごジャムの瓶が転がった。
「なら、もう行きましょう、リヴァイさん家」
「行くんじゃねえ、帰るんだ。俺たちの家に」
レジに向かう姿をぽかんと眺めるエレンの顔が、瞬間湯沸かし器のごとく一気に熱くなった。
※規約によりR18シーンをカットしてあります。
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