エレンの態度は平常通り。変にそわそわとしている自分が馬鹿みたいだ。

 シャーペンから消しゴムに持ち替えるときに手を伸ばすと、エレンの手がするりと自然を装って引っ込められる。その瞬間だけ、昨日のことが夢や幻ではないと安堵した。避けられているような態度だが、意識されていることに変わりない。

 

 二時間ぶっ続けで行われた授業は、今日も無機質なアラーム音に終わりを告げられる。帰る前にとトイレに行ったエレンが、なんとも言えない顔で戻ってくるのは金曜日の恒例だ。

「今日は生姜焼きの匂いがした。あと揚げ物の音がする」

「食いてえなら食ってけばいいっつってんだろ、いつも」

「そんなわけにはいかねえだろ……成長期の飯を奪う大人になりたくねえよ」

 ときおりなされるやりとりだが、今日のメニューはよほど気になるらしい。まるで漫画のようなタイミングでエレンの腹の虫が鳴いた。

「たまには誰かと飯が食いてえ、付き合えよ。飯が減るなんて考えんじゃねえぞ、家政婦は明日も来るからな」

 ぐらぐらと揺れているのが見て取れる。あとひと押しもいらないほどに匂いに惹かれているようだ。

「別にオレじゃなくてもいいんだろ、それは」

 拗ねたような物言いに、気を抜くとニヤけそうな高揚感を感じる。唇にぐっと力をいれた。

「エレン、俺はお前と食いてえ。お前と、話をしながら食いてえ」

 エレンの視線がふらふらと宙をさまよって、不自然なぐらい自分の目と合わなくなった。何食わぬ顔を作っているつもりだろうが、耳の先からじわじわと赤みが広がっている。

「……口説かれてるみてえ」

「昨日の今日で口説かれてえのか? あとあと体目当てだと悩むのがオチだろ」

「違いねえ。体目当てなのかなんて悩むのも悪くねえけどな」

「馬鹿言うな」

 リヴァイの部屋からまっすぐに伸びている長い廊下は、玄関への直通コースだ。しかし途中で曲がると、中庭を囲う廊下が顔を出す。風呂場や居間近くのトイレ、中庭に出るためにはここを通らなければならない。

 ひょいとそこを覗いたエレンは改めて疑問に感じたらしく首を捻った。

「リヴァイの家ってL字型になってんの?」

「いや、もっと複雑だな。二階に上がれば全体図が分かる」

 中からしか建物を見たことのないエレンは、リヴァイの家が複数の建物を繋げているとは予想だにしないのだろう。居間があるのは母屋、そしてリヴァイの部屋があるのは離れだ。

 リフォーム前はいちいち靴を履いて母屋まで向かう必要があったらしい。玄関の手前にはリビングダイニングに通ずる部屋がある。家政婦が使うメインのキッチンもそこにあった。

「マジでオレも食っていいのかな……」

「俺が誘った」

 エレンの鞄はリヴァイの部屋に置かれたままだ。気持ちが全く落ち着かないのか、視線があちこちをさまよっているのが隣から見てもよく分かる。

 二人分の足音が気になったのだろう。目を丸くした家政婦がキッチンからひょいと顔を出した。みるみるにんまりと細めた目と「二人分ご用意しても?」と尋ねる声が、リヴァイの心を代弁するように浮足立っている。

「突然ですまないな」

「いいんです。お食事は一人よりも複数で召し上がるほうがおいしいでしょうから。少しお時間いただきますね」

 キッチンに引っ込んでいく背中でさえ浮かれているように見えた。途端に包丁がまな板を叩く音やコンロの音が激しくなったのは急遽メニューを変えたためか。

 コンロやオーブンの音が立て続けに響いたのも、ほかほかと湯気を立てる皿を持ってきた足がスキップしそうなぐらい軽快だったのも、家政婦がリヴァイの代わりに喜んでくれているからか。ずっと一人で食べていることを心配してくれていたのかと想像すると、少し申し訳ない。

 テーブルの上にはエレンが予想した通りの生姜焼きと揚げ物が置かれる。少量のおかずが何品もあるのは、明日の昼食用のおかずを犠牲にしているからだろう。

「足りなければおっしゃってくださいね」

「ああ、ありがとうな」

「ありがとうございます、いただきます」

 エレンの手のひらがぱちりと鳴った。まるで小学校の給食を思い出させる所作に家政婦の目尻が下がる。食べた瞬間に分かりやすく目を輝かせたせいで、ついに声を上げて笑ってしまった。家政婦ではなくリヴァイがだ。

「うまいな、すげえうまい」

 がっつりと頬張ってから、味わうようにゆっくりと咀嚼している。ぱんぱんの頬袋がしぼみきったところで、また新たなおかずで頬がぱんぱんに膨らんだ。

「まじでうまい……」

「毎日どんな飯食ってんだ」

「お前今馬鹿にしただろ。ちゃんとくつくつ煮込んだような味するカップスープとか、どっかのおふくろの味を再現してるらしいチンする飯とか食ってるぞ」

 堂々と胸を張れるようなメニューではないが、自炊しているだけいいだろう。むすっと拗ねたような顔と得意げな顔を行ったり来たりしていたエレンの表情は、食べ進めれば食べ進めるだけ柔らかくほぐれていく。

「……で、作りたての飯の感想は?」

「すげえうまい、これ以上ねえぐらいにすげえうまい」

 語彙力の少なさに小さく笑っていたらゴトッと追加のおかずが並んだ。おふくろの味にありがちな煮物とたっぷりのだし巻き卵だ。連発される褒め言葉をちゃっかりと聞いていたらしい。

 家政婦は明らかにエレンの言葉を受けて上機嫌も上機だ嫌。こいつには人を惹きつける力もコミュニケーション能力も相変わらず備わっている。そもそも、リヴァイ相手にこれだけ自然に会話を続ける相手も珍しい。

「また、いっしょに飯を食ってくれ」

 食後にそう誘えば、エレンはいいのかと目を輝かせ、家政婦は笑い皺をくしゃくしゃにして笑った。

 

 

 一度身体を重ねてしまえば、二度目がほしくなる。しかし求めあぐねてしまう。あいつの態度のせいだ。

 まるで何もなかったかのように笑い、触れ、しかし不自然なほど距離を近付けさせてはくれない。ニィと笑う顔にホッと安堵する反面でちりちりと苛立ちがちり積もる。

 半ば無理やり何度か食事を家で摂らせて、心の中への接触を図る。それでも何を考えているかまるで分からない。

『今日はハンバーグだった。すっげえ美味かったから今度作り方聞いちまおうか悩んでる』

『明日はせっかくの休みなのに掃除ぐらいしか予定がねえ』

『勝率が上がらない。同じゲームやってるやついねえ?』

 最新の発言に、脊髄反射で指を滑らせた。

『野良でしか組んでねえのか』

『野良か、たまに大学の友達とぐらいですね。今からやりますか? というか、同時期にはじめましたよね? レベルも勝率もすごいなと思ってて!』

 スマホがぽんっと鳴って、画面に返信が表示される。明日は土曜日だ。多少夜更かししようが問題はない。

『自分に向いてたらしくな。一戦ぐらいやるか。動きを見て分かることもあるだろ』

 ネット越しに仲良くなるきっかけは簡単で単純だった。ゲームを何戦かやりつつ会話を行えば、どんどんと和らいでいく態度を感じた。エレンの部屋は壁が薄く生活音が筒抜けだそうで、夜にボイスチャットはしない。リヴァイもまた、似たような理由を離してボイスチャットから逃げていた。

 ネットの世界のリヴァイの年齢は三十代。これといった特徴のないただのサラリーマンで、未婚の一人暮らし。

『学生みたいな時間帯にいるけど、絶対に大人だなって思ってたんです。ナーシさんとのやり取り見てて』

 実際には三十どころか十三歳だと自嘲しつつも、嘘をつくことをやめるつもりはなかった。

 

『オレ、コミュ力ないですから』

 ゲーム中の発言に、敵を取りこぼしそうになる。タンッと乾いた音が鳴り、斜め前でチラチラと見えていた敵がばたりと倒れた。

『俺とこれだけ会話が続くのはお前ぐらいだぞ』

 逆にコミュニケーション力に優れていると普段から思っていたのだが、自己評価ではまだまだらしい。エレンが低ければ自分はどうなってしまうのか。前の世からずっと高かったと思っていたが、たしかに思い出せば一言多かったり喧嘩っ早かったりする点があった。しかし大事なところでへまをする男ではなかったはずだ。

『コミュニケーション力は付加価値だ。運動神経なんかと一緒で、あればいいが、なくても生きられる。俺みたいに口も愛想も悪い男でもなんとかなってんだ、人懐っこいお前なら大丈夫じゃねえか』

 気にしないでお前はのびのびしてりゃあいい。大事な部下を想う気持ちで打ち込んでからハッとした。話しすぎたか。送ってから自分の文章を読み返す。SNS上でしかやり取りをしていないリヴァイが、人懐っこいと断言してもいいものか。

『そうですかね? あなたは言葉のチョイスこそ独特ですが、コミュ力がないわけじゃないと思うんですが』

『そうでもねえよ。お前はもっと自信を持て。もともと自信が持てねえ性質じゃねえように見えるが?』

 自信を引き出すのは周りの力に掛かっている。

『オレは、寂しい』

 前に聞いたその言葉は思っていたよりもあいつの深層をついているのだろうか。それとも考えすぎか。