吹き出した汗が襟を濡らし背筋を流れる。中学校から家までの距離は、暑さのせいでやたらと長く感じた。これから長い長い坂道を登らなければならない。

「リヴァイ、乗ってくか?」

 チリンと小気味よい音がする。柔軟剤と汗が混じったエレンの匂いがふわりと鼻腔を擽った。

 後ろに乗せてくれるのかと思いきや、ハンドルごとぐいぐいとリヴァイに渡してくる。

 反射的に悪いなと口を開きかけて、一文字に唇を結んだ。

「普通は年上が前じゃねえのか」

 サドルの高さが忌々しい。ペダルに足をかけると自転車がガクンと揺れて重みが増した。

「悪いな」

「思ってもねえくせ、にっ……!」

 ただでさえ上り坂だ。自転車のフレームが悲鳴を上げかねない重みがのろのろと坂道を走りはじめる。じわじわと上がるスピードに、額の汗が後ろに流れた。

「重いか?」

「クソ重いに決まってんだろうがクソが」

 帰ったら勉強の前に冷たいシャワーを頭からかぶりたい。冷蔵庫で冷やしている麦茶をがぶ飲みして、クーラーでガンガンに冷えた部屋でくつろぎたい。

 涼める妄想を膨らませていると、後ろがグラグラと揺れはじめた。

「おい、変に動くんじゃねえ」

「あ、ごめんな?」

 振り返った先で予想だにしなかった肌色が見えて、ごくりと生唾が喉を通過した。

「なんで脱いでんだよ……!」

 はたはたとエレンが着ていたシャツが風でなびく感覚がする。しっとりと汗で濡れた腕が腹に巻き付いて、汗ばんだ胸板を背中に押し付けられた。涼しい妄想をしていても、身体にどんどんと熱が溜まる。

「はぁ……すげえ涼しい」

「くそがっ」

 上半身裸の男を後ろに乗せたまま、前を睨みつけて必死で自転車を漕いだ。

「安心してくれ、下は脱がねえから」

「脱いだら即通報してやる」

 冗談を返す気力も尽きそうだ。

 

 門の内側に自転車を停めて、鍵も掛けずに屋敷に入る。

「まだ四時半か。勉強前にシャワー浴びさせろ」

「いいな、オレも入りてえ」

 なら一緒に入るか。そう聞きたいがぐっと堪える。十七時になったら家政婦が来る。一緒に入ってしまったら、きっと三〇分で終わらない。確実に汗まみれの素肌に指を滑らせて、石鹸まみれの身体を美味しく頂いてしまうだろう。勃たない自信がないからだ。

「俺が出るまで待ってろ。冷蔵庫の麦茶飲んでいいぞ。ああ、あと勉強が終わったら来月の予定を調整したい」

「来月?」

「外せない予定が入った」

 エレンの顔がゆっくりと綻んだ。リヴァイに予定が入るのがそんなにも嬉しいのか。

 

 

 書き込むのはカレンダーではなく、生徒手帳の小さなスケジュール欄だ。エレンはスマホを手にしてリヴァイの生徒手帳を覗き込んでいる。

「オレの都合じゃなくてリヴァイの都合で予定をズラすのって初めてじゃねえ?」

「今までもあっただろうが。体育祭の打ち上げとか、そういうやつが」

 テスト期間中だろうがなんだろうが関係なく家庭教師の授業を受けていたリヴァイだったが、さすがにクラス全員が集まる打ち上げは優先せざるを得ない。長い目で見れば不必要なイベントごとだが、理由なくノーだと言えるほど異質になりたいわけでもなかった。それでなくとも、若い教師に友好関係の面で目をつけられている節がある。

「見てえなあ、リヴァイがクラスでどう溶け込んでいるのか」

「なんだ、バカにしてねえか?」

 いたずらっぽく笑うエレンは、どことなく生き生きとした面持ちだ。予定のすり合わせをする前から目がキラキラと瞬いて見えた。いや、それどころかここ最近はずっとこうだ。

「えらくご機嫌じゃねえか」

「あ、分かるか? やべえ、顔に出てんのかなぁ」

 きゅっと目を細めては、視線をどこか遠くにやる。SNSでは相変わらず脳天気な発言ばかり、ゲームでも大した話をしていない。

「最近、年上の知り合いができてさぁ……」

「年上の知り合い?」

 エレンの瞳をキラキラと輝かせているのは自分とネット上でも知り合ったからかもしれない。むくむくと湧き出る期待感に無理やり蓋をして表情を隠す。

「そう。なんかすげえゲームも強えんだ。リヴァイはゲームとかしなさそうだな」

「……しねえな」

 毎晩している。最近はエレンから誘われて新たなゲームにも手を出した。前と同じく敵をただひたすら倒すだけのゲームだが、少しの操作性の差で二人とも飲み込むまで時間がかかった代物だ。

「ゲームするやつの部屋じゃねえもんな」

 テレビすら置いていない、殺風景な部屋をぐるりと見渡される。かろうじて置いてある小さな本棚には、教科書や参考書の類と卒業アルバムのみが並んでいる。ゲームどころか、趣味嗜好が全く窺えない部屋だ。

「オレが中学のころは、もっと漫画とか置いてたんだけどな」

 椅子から降りたエレンがおもむろにその場でしゃがみこんだ。目を細めてベッドの下を覗き込んでいる。

「エロ本なんてねえぞ」

「そっか、リヴァイは動画派か。よし、お兄さんにスマホ見せてみろ」

「ねえよ。もし見てたとしても分かりやすいところに保存しねえ」

 そろそろと伸ばしてきた手を開いたままの生徒手帳で軽く叩く。痛そうに手を振っているが、ニヤけた笑みは引っ込んでいない。

「そっか、リヴァイもエロい動画を見たりすんのか。健康な中学生の男の子だもんな」

 暖かい手指が頭をわさわさと撫でていく。まるで犬相手のような手付きだ。

「健康っぷりは身体を使って味わっただろうが……」

 額に当たった指の温度がぐっと上がった。悪びれた様子に今度はリヴァイの唇がニヤニヤと笑う。

「今日も飯食ってくだろ? お前が来るからハンバーグか唐揚げにする、なんて言ってたぞ」

「く、食うけど……」

 もっと虐めてやりたい気持ちを噛み殺して、しゃがんだままの肩を叩く。部屋を出るときに後ろから「すけべ」なんてぶすりとした呟きが聞こえて、ニヤけた顔がさらに酷いものになった。

 

 エレンが帰ったあとは、すぐに風呂に入りなおしてスマホに触れる。大体のログイン時間はもう覚えた。家庭教師があった日は普段よりも少しだけ遅い時間にゲームをはじめている。勉強は基本的に朝と夕方にしているようだ。

 次に会えるのは約一週間後。しかしネットでは毎日話し、遊んでいる。ゲーム内では特定のグループに属していなかったエレンだが、今ではペアでずっと行動しているのだ。

 嬉しいようなむずむずとする気持ちの下側で、面白くない気持ちが同居していた。あいつが見ているのは虚像の自分であって、等身大の自分ではない。