まずは井戸の前でイノシシの喉を切って血を抜き、次いで腹を掻っ捌いた。リヴァイがノコギリを持っていてよかった。面倒な胸骨も力技で断ち切れる。

 鍋を持ってきてもらい、内臓を洗ってからぽんぽんと放り込んでいく。前に捌いた鹿とは違って、喉のあたりは綺麗なものだった。今日も明日も腹一杯に肉が食える。野菜の汁みたいな腹持ちの悪いものではなく、満腹にして寝ることができる。捌きながらも浮足立つ心を止められない。

「バケツもいるな」

「いりますね」

 途中で首を落とすと、明らかに引いた顔をしている。自分はサクッと狩ってしまうことのほうが引くポイントだと思うのだが。

「洗ってるときマジで臭いんで離れててもいいですよ」

「お、おう……」

 大腸の中は予想通りのものが詰まっているし、膀胱の中だって同じくだ。しかし丁重に洗いすぎるぐらいに洗えば、貴重だが臭いタンパク源は、美味しい美味しいお肉として生まれ変わる。死にたてで新鮮なことが分かっているからなおさらだ。罠に掛かってどのぐらいで死んだか分からない動物とはわけが違う。

 ひたすら無言でガコガコと井戸水を出し続けてくれているリヴァイに心の中で感謝しながら、一心不乱に洗い続けた。空はどんどんと暗くなっている。時間との勝負だ。

 しかし煮てもいいが焼いても美味そうな臓物だ。寄生虫が怖いから、しっかり目を凝らして綺麗に洗おう、そしてよくよく火を通そう。

 イノシシの皮を剥いでいくあたりで、ようやくリヴァイは目の前の光景に慣れたらしい。井戸のレバーからナイフに手を移動させて、ようやく恐る恐る参戦した。そうだ、今夜な肉だ。久々の魚以外のタンパク質だ。

「なかなか難しいな」

「皮下脂肪はなるべく皮に残さないようにお願いします」

「……あ、穴開いちまった」

 見れば小指の先ほどの穴が小さく開いている。残念そうに眉尻を下げる姿に少しばかり和みながら、皮を削ぎきって肉を二つに切り分けた。ここまできたら、あとは玄関あたりにでも吊るしておけばいい。家がこの重みでも持つかは分からないが、まあ大丈夫だろう。

「今夜はもつ煮ですよ」

「お前、さっきからすげえ嬉しそうだな。目ぇギラギラしてるぞ」

 引いていたのは目の前の光景ではなく、エレンの顔つきのせいだったらしい。

「嬉しいに決まってるでしょ。久々のご馳走なんですから。人間雑食なのに野菜ばっかりだと力が出ませんし」

「そうか、そうか……。急ごう」

 結局、肉をある程度解体し終えたときには、足元がギリギリ見えるぐらいまで暗くなってしまっていた。真っ暗な中で身体を洗うのは危ないが、身体中が血と汗と体液でべとべとしている。

 玄関の梁に付けているフックにぶらりとでかいままの枝肉を引っ掛けて、暖炉でコトコトと臓物を煮込む。一通り作業を終えると、より自分たちの身体の汚れが気になってきた。

「風呂入りたいですよね」

「入りてえ」

 間髪入れずに唸るリヴァイも相当気になっているようだ。眉間の皺がとんでもなく深い。

「オレ、石鹸も着替えも全部井戸の上に乗せちまったんですよ」

「知ってる。どうにかして行くぞ。このまま寝転がりたくねえ」

 暖炉で燃えている火をどうにかして運ぶか、それともすぐ近くでちょろちょろと出ている水を利用するか。簡単なのは前者だ。

「松明とか作ったことないんですが」

「無理だろ、松脂持ったまま玄関をくぐる気か。燃えるぞ」

「身体洗っている間ずっと持ってんのも嫌ですしね」

 しばらく考え込むように動きを止めていたリヴァイは、長い間の沈黙を経て「閃いた」とだけ口にした。

 それからの行動は早いものだ。金属製の小さな器に脂をこそげ落として、器ごと暖炉の火で炙りはじめる。モツの煮えるいい匂いに、また美味そうな匂いがプラスされた。エレンの心は水浴びよりも空腹に傾きつつある。

「何するんですか?」

「黙って見てろ。外にあった布団はもういらねえだろ、少し貰うぞ」

「いいですけど」

 布団をオイル漬けにして燃やすのか。とてもよく燃えて明るくなりそうだが、少し違う気がする。

 布の裂け目から中の綿を少しだけ引きちぎって、くるくるとこよりのような物を作っている。そこまできて、ようやく何ができるのかがエレンでもピンときた。オイルランプを作ろうとしているらしい。適当に放置していた針金で綿で作った芯を固定させて、熱々の器の中にずぶずぶと浸している。脂が染み込んだ芯はじんわりと色を変えた。

「この器、持てないですよね」

「適当に鍋か何かに入れていくか。でけえやつ以外にもあるだろ、鍋」

「あるけど、ああ、これ良さそうです」

 片手鍋に放り込んでから、芯にそっと火を移した。おおおと男二人分の歓声が上がる。何故リヴァイも感心したような声を出しているのかは分からない。

「できるもんだな。初めて作った」

「よく食料を思いつきで使ったものですね」

「なんでそんな恨めしそうな顔してやがるんだ。水浴びるぞ水、血生臭え上に脂くせえし獣くせえ」

「あと汗くせえ」

「てめえもな」

 石鹸も服もタオルも、全てを置きっぱなしだ。手作りのライトだけを手に持って、浮かれながら井戸に向かった。今の今まで真っ暗闇に近かった道が、たった一つ火を灯すだけで明るいったらない。

「お前はいつも楽しそうだな」

「実際に楽しいですし。リヴァイさんも、生き生きとしてますね」

 どんどんと表情が豊かになっている気がする。眉間に皺を寄せる気難しそうな顔が、ふとした瞬間に子供のように緩むのが好きだ。昨日は死にかけの自殺志願者にしか見えなかったが、今は違う。逞しく生きている。不運なオーラをぶち壊すように。

「そうか? まあ、したことねえ苦労ばっかりしているが、達成感と隣合わせの苦労は悪くねえな。ずっと夏休みの自由研究をしている気分だ」

 また顔がふっと緩んだ。下がった眉尻の先に飛んだ泥を指先で拭ってから、同じように眉尻を下げて笑う。

「なんですかそれ」

 ああ、リヴァイの言う『しばらく』が終わってほしくない。ゆっくりし終えたら、ここからいなくなってしまう。せめて今は、この気持ちと心地よさを噛み締めたい。

 

 思いつきで作った簡素な灯りは、予想外に炎を安定させている。鍋に器ごと入れたお陰で風にも強い。脂の減り方を見ていると、二人の予想を大きく上回るほど火は長持ちしそうだった。腹の減るいい匂いがすることが唯一のマイナス点だ。

「オイ、タオルに虫付いてんじゃねえか。ちんこと虫が出会っちまうところだ」

「すっげえ嫌なかぶれ方しそう。嫌だなぁ、ちんこ掻いてるリヴァイさん」

「俺だって嫌だぞ、隣でボリボリちんこ掻いてる男と寝るのは」

 自分が刺されるところは想像すらしたくないのはお互いにそうだったようだ。言われてリアルに想像してしまって、ぐっと一瞬言葉が詰まる。

「昨日リヴァイさん寝ながらケツ掻いてましたよ」

「……嘘だろ?」

 仕返しのつもりで冗談を飛ばせば、ぽかんとした顔が返ってきた。目を丸く見開いて口を半開きにする姿は、どこか無防備であどけない。思わずふは、と吹き出しそうになり、腹にぐっと力を込めた。

「嘘です」

「てめえ、後で覚えてろよ」

 俯いてガシガシと頭を拭いているせいで、表情が全く見えない。地を這うような低い声を出しているのに、何故かリヴァイが本気で怒っていないことは確信していた。

「お手柔らかに」

 笑いながら灯りを手に持てば、ばちりと目と目が合った。やっぱり、怒ってなんかいない。

 

 帰ってから最初に対峙するものは、グラグラと煮えたぎる鍋である。モツがたっぷり入っている鍋は、二人がかりでも食べきるのがキツそうだ。足が早いからと全て煮なければよかった。せめて少しでも串に刺して焼けば、飽きることはないだろうに。

「明日の朝もこれですね」

「飽きるな」

 鍋の中にはまだごろごろと臓物が沈んでいる。はじめはガツガツと食べ進めていた二人は、溜息を溢しながら空の器をずず、と前に追いやる。飽きた上に満腹だ。しかし飢えた経験を考えると、食べられるときに食べておきたい。それは飢えて倒れていたリヴァイも同じだろう。

「毎日野菜汁を食うよりはマシです。はぁ……肉焼いて食いたい」

「てめえも飽きてんじゃねえか」

「せめて塩とか胡椒があれば……」

 満腹でももっと平らげることができたのに。

「なるほど、スパイスか」

「何か手が?」

 指で顎をするりと撫でている姿は、思考を深く潜らせているようだ。何か知恵でもあるのかとエレンは目をらんらんと輝かせる。

「大昔、塩や香辛料は物凄く貴重な物だったらしい。この辺じゃ手に入らねえからな」

「駄目なんじゃないですか、すげえ期待したのに」

 がっくりと肩を落として、恨めしげに睨みつける。予想はしていたが、この男、一切動じる様子はない。

「って説が昨今まで主流だったが、今は諸説あるらしいな」

「で、何が言いたいんですか」

「明日森に行ってハーブ探すぞ。塩や胡椒がなくとも、自生のハーブなら風味ぐらい変えられるだろ。あと肉が腐る前に燻製にしちまうぞ。塩がねえから長期保存はできねえがな」

 ようやく出てきた具体案に、明日の予定がばしっと決まった。肉を処理しながら、ハーブを探しに行くのだろう。断言するということはそれなりに知識があるはずだ。

「ここが海辺だったらよかったんですが」

「本当にな。海水がありゃ、野菜汁も美味かったかもしれねえな」

 リヴァイにつられて立ち上がり、簡単に食器を洗う。満腹のままベッドに狭いベッドに二人で寝転がった。昨日はぐったりと疲れているせいですぐに眠りに落ちた。今日は満腹感のお陰で、やはりすぐに夢の中へとダイブできそうだ。

「まだ二日しか経ってないのが不思議です」

「俺もだ。一ヶ月ぐらい長居している気分だ。すまねえな、ベッドを狭くして」

 二人で同じシングルベッドに寝転がっているせいで、寝返りを打つのが精一杯だ。一切不快感がないのは同性だから、そしてリヴァイのことを人として好きだからだろう。

「気にしてませんよ。オレ一人だと、ベッドはともかく、家も村も広すぎましたから」

 ギシっと古いスプリングが鳴って、大人のごつごつとした手のひらが頭に伸びてきた。当たり前のように頭を撫でられて、心の中の柔らかいところを直に触られている気分に陥る。不快ではない、それどころか安心する。

「お前は強いな」

 会社を辞めて、次の職にも付けず、財産のほとんどを失うことは、どれだけの衝撃があったのだろうか。生きているかどうかすら分からない親戚を訪ねて、辿り着けずに倒れるときは何を考えていたのだろうか。信じられないぐらいに酷い身の上話だ。

 一発で全てを失って諦めざるを得なかったエレンとは、また違う残酷な世界。

「一回り以上もガキなのにな」

 一回り以上も大人の男が、泣いているのかと思った。声色は淡々としており、表情も動いていないのに、泣いているように見えた。自分と同じように安心してほしくて伸ばした手は、悩むように宙を彷徨ってから、どうすることもできずにベッドに沈む。

「オレから見たらリヴァイさんのほうが強いですよ。イノシシにナイフで勝つ人なんて見たことねえし」

 気付いていないフリをして、あえて茶化して二人の空気を入れ替えた。そんな自分が情けなく、酷く小さく見える。

「案外敵の動きを見ていればできるものだぞ」

「そんな冷静に対処できねえよ、嫌でしょそんな十五歳」

 見ないふりに乗ってくれたので、ふ、と安堵の息を吐き出した。いつの間にか後頭部を撫でている手が髪をさらさらと触って遊んでいる。

「お前のイノシシ捌くスキルは十五歳じゃなかったがな。若干引いた。嘘だ、ドン引きした」

「はあ? 酷くないですか?」

「酷くねえよ。瞳孔かっ開いて、口だけで笑いながら内臓出してんだぞ。山姥だって裸足で逃げる」

「そりゃ、久々の大物の肉だし、ご馳走だし、美味そうだったし……」

 浮足立ちながら捌いていた姿はそこまで異様に映っていたのか。しかし今度から気を付けようとは思わない。そのうちリヴァイも慣れてくれるだろうと、楽観視しながらごろんと寝返りを打つ。

「まあ、お陰で飯にありつけたわけだがな。調理ありがとうな」

「お粗末様です」

 髪で遊んでいた手が、優しく腹をぽんぽんと撫でている。一気に襲いかかった眠気は、失神にも似た速度でエレンを夢へと突き飛ばした。