「気持ちよくなった顔が見たかったのに、すげえ気持ちいいときって、目ぇつぶっちまうもんなんですね」

 恥じらいながら差し出されたティッシュを上手く受け取れず、箱がガタンと床に落ちる。ただ感想一つ伝えられるだけで、自分はここまで動揺する人間だったらしい。

「さ、身体洗ってきてください。大腸菌ってやばいんですよ」

「ああ、……また、借りるぞ」

 赤い顔をしながら淡々と突き放す。一回り以上年下の小悪魔は、どろどろになった身体を丁重にぬぐいながらも、目が合えばはにかむように目を細めた。

 

 さっぱりと洗い上げた身体で、じめじめと湿度を感じるベッドに寝転がる。普段では絶対に嫌なシチュエーションだが、今日だけは満ち足りた気持ちから動かない。

「眠たいけど、まだ寝たくねえ」

「我慢しねえで寝ちまえ。明日寝坊したらどうするんだ」

「それは困りますけど……」

 同じように横になったエレンとは、一瞬たりとも離れたくないとばかりにぴたりと触れ合っている。一夜限りの夢から覚めたくないのはリヴァイも同じだ。引き寄せて抱きしめると、もぞもぞと動く腕に抱き返された。

「こうするとドキドキして寝られなくなるかと思ったのに」

「眠いのか?」

「安心して眠くなっちまいました」

 口が大きく開いて、ふわりと生暖かい空気が動く。つられて出たあくびに、眠気を意識させられる。

「寝たくねえな」

「リヴァイさんだって、オレと同じなんじゃないですか」

 エレンを抱きしめる手のひらがぽかぽかと温かい。子供のような体温に、まぶたがとろんと落ちていく。寝たくないのに、身体がずっしりと重みを増していった。心地よい疲労感は二人を夢へと誘う。

 はっと目を開くと、開かれたカーテンからさんさんと太陽の明かりが部屋を照らしていた。いつの間にかぐっすりと寝てしまったらしい。寝入りの記憶がないが、全身から昨夜の疲労感が抜けていた。

「早起きですね」

 そう言って笑う顔は消えてしまいそうに儚げだ。甘い時間があっさりと溶けて消えていく。

「飯食ったら、帰る準備をしないと……」

 離したくない。無表情の仮面をつけたまま奥歯に力を入れた。ただの格好つけのやせ我慢だ。

「ギリギリまで、一緒にいてくれますか?」

「勿論だ。嫌だと言われねえ限りは、空港のチェックインカウンターまで見送るぞ」

 腕を広げると当たり前のようにエレンが胸元に飛び込んできた。このぬくもりを失うまで、残り数時間。身体をずらして、思いの丈を口づけに込める。

 同じように寝起きだと思っていたが、爽やかなミントの香りがした。エレンはすでに身支度を整え終わっているようだ。時計を確認すると、もうすでにレストランは開いている。

「飯を食う前に、着替えてえな」

「あの、……部屋までついていっても、いいですか?」

「当たり前だろうが。一瞬たりとも離れたくねえ」

 真剣な顔で伝えると、嬉しそうな笑みが返ってきた。

 顔だけはエレンの部屋で洗って、手をつなぎながらホテルの中を歩く。どこからどう見ても立派なゲイカップルだが、人の視線は全く気にならなかった。こんな男前を連れて羨ましいだろうとさえ思う。

 自分の部屋はエレンの部屋よりも生活感が濃い。机の上にはパソコンが、そしてクローゼットには何着かスーツや私服が掛けてある。興味深そうにきょろきょろと見渡していたエレンは悪戯っぽい顔をした。

「リヴァイさん、さては綺麗好きですね」

「なんで分かった」

「滞在期間のわりに、隅々まで整理整頓されてますから」

「滞在期間なんて言ったか? ああ、荷物の量か」

 種明かしをされれば単純なことだ。クローゼットの前で部屋着を脱いで、適当に私服を選ぶ。背中にずっと熱い視線を感じて、上手くリアクションを返せない。きっと自分もエレンが着替えていれば、じっと見つめていただろう。くすぐったくて仕方がない。

 脱いだ服を適当に畳んでランドリーバッグに落とせば、小さく笑う声がした。

「思った以上に綺麗好きでした」

「神経質で嫌だと思うか?」

「まさか! たとえリヴァイさんが潔癖症だとしても、それはそれで嬉しいです」

 潔癖症を疎まれることはあったが、喜ばれたことはない。真意が分からず、まじまじと顔を見つめる。

「嬉しいのか?」

「だって、昨日オレの汚いところも触ってくれたじゃないですか」

 言いながら色々思い出したようだ。じわじわと変わる顔色に、自分の顔も熱を孕んだ。快感を脳みそが再生して、ぞくりと背筋が震える。

「お前、実はモテるだろ」

「昨日言ったでしょうが。モテませんよ」

 いい意味で人を翻弄しっぱなしである男が、モテないわけがない。もしかすると、モテないと思いこんでいるだけの鈍感野郎なのか。

「お前の言葉にドキドキしたりハラハラしたり、ムラムラしたりしちまうんだが」

「ムラムラって……!」

「もしも近場にいたら、きっと俺は猿になるぞ」

「オレだって、あんだけ気持ちよくなっちまったら、猿になっちまうかも」

 寝起きの頭をどれだけ翻弄するつもりなのだろうか。

「お前、俺がどれだけ我慢してるか分かってんのか」

「オレだって我慢してるんですからね」

 ぷりぷりと怒る様子を見て確信する。エレンの一言一言がどれだけリヴァイの心を乱しているか、分かっていないことを。

 ため息を噛み殺しながら身支度を終わらせて、身体ごとエレンに向き直った。柔らかな頬を優しく撫でてから、思い切りつまむ。

「何するんですか」

「じゃれてんだ」

「じゃれ……? じゃれてんなら、いいんですが……」

 疑問符だらけの顔をひとなでして、手を繋ぐ。絡んできた指が愛しい。

「ここのバイキング、色んな国のメニューがあるんですよね」

「特にアジアの料理が充実している。美味いぞ」

「予約取るとき、口コミ見てすげえ楽しみにしてたんですよ」

 朝に見た儚げな男はどこに行ってしまったのだろう。ひたすらにうきうきとしたエレンは、鍵を締めている間も落ち着きなく身体を動かしている。

「地元でも、ホテルで飯なんてあんまり食うことないんですよね」

「お前はファーストフード食ってそうだな」

 実際はありつけなかった、ロブスターロールを頬張る姿を想像して頬が緩む。チーズたっぷりのハンバーガーも似合いそうだ。

「アメリカの学生じゃないんですから」

 妄想を打ち砕くような白けた顔に、ふと出張時の記憶がよぎる。

「……思い出したぞ。毎日同じ飯食ってるんだろ」

 ソーセージにザワークラウト、芋、パン、そして芋。熱い食事は一日一回。食に対してストイックなお国柄は、リヴァイを大いに困惑させた。共に出張した相手は、最初こそ嬉しそうにソーセージを頬張っていたものの、どんどんとしょぼくれていったことは記憶に濃い。

「観光中ならまだしも、毎日違う飯食ってると疲れるじゃないですか」

「朝食バイキングを楽しみにしている男の台詞じゃねえな」

「それはそれ、これはこれです」

 観光中は別腹ということなのか。訳がわからないと頭を悩ませていると、いつの間にかホテルのレストランに到着していた。

 見慣れている光景だが、エレンは珍しそうにきょろきょろと視線を走らせる。

「これぞホテルの飯って感じですね」

 機嫌は上昇したまま戻ってこない。

 

 朝食は盛り上がっていたものの、いざ空港に向かうと一気に口数が減ってしまっていた。お通夜のような重苦しい空気でのタクシー、唇を一文字に結んだまま歩く歩道。

「どのぐらい余裕を持って、チェックインカウンターに行けばいいですか?」

「一時間前に行けばいい」

「そう、ですか……」

 時計の針はまだ余裕があることを告げている。ガラガラとキャリーを引く音が、空港内の喧騒でかき消された。

「時間まで喫茶店にでも行くか。土産はもう買ってあるんだろ?」

 どの国にもあるであろうチェーン店を指差すと、音なく頷かれる。ひしひしと寂しさを感じて、顔を確認するのが怖い。

 適当に注文した飲み物を握りしめて、できるだけ端の席を陣取った。

 喫茶店の目と鼻の先にはチェックインカウンターがある。そして、喫茶店の中には見送りにきただろう人間や、時間を潰しているらしい人間があちらこちらに点在していた。

「オレ、いい医者になりたいんです」

 静かな声が鼓膜を撫でる。乾いた喉を飲み物で潤そうと一口飲んだが、味が全く分からない。

「真面目に頑張ってたお前ならなれる」

 母国で、きっと色んな患者と対峙していくだろう。この国で培った知識も、きっと上手く使うのだろう。想像にたやすいが、想像したくない。そこに自分はいないのだ。

「一年、……」

 エレンが唾を飲み込む音が、ここまで響いた。緊張した目と目が交差する。

「一年でまた金溜めて、ここに来ます。だから――」

 自分ができなかった決意が、リヴァイの心にすとんと落ちていく。

「ちょうど一年後。オレたちが出会ったレストランの前で、待ち合わせしませんか?」

 夢を持つ相手を縛ることを躊躇していた。何も言えないでいた。しかしエレンは、リヴァイを縛る覚悟と決意をしたのだろう。

「なら、時間は十八時だな。俺達が出会ったのはそのぐらいのはずだ」

 リヴァイは、エレンを縛ることをためらったままだ。

 離したくない、心からそう思う。きっと今のエレンも、似た気持ちでいると信じている。しかし、一年後のエレンはどうだろうか。

「何があっても行きますから」

「ああ、待っている」

 連絡先の交換を言い出さなかったのはお互い様だ。案外、自分たちは似ているのかもしれない。違うところは、別れが辛くて死にそうなリヴァイに対して、エレンは前ばかりを見ていることだ。

「寂しい一年になりそうです」

「ズリネタには困らねえだろ」

「切ない遠距離恋愛がはじまるってのに、下品過ぎやしませんか?」

 惚れた男は、こんなにも強い。

 とりとめのない話ばかりをぽつりぽつりと話し込む。これから何がしたいのか。誕生日や家族構成を知ったのは別れる十分前だった。

「じゃあ、行きますね」

「一年後に、またな」

 一旦帰省する、そんな気軽な雰囲気を纏うエレンの襟首をぎゅっと掴む。顔を寄せて強引に奪った唇は、カラカラに乾ききっていた。

「十八時。忘れないでくださいね」

 眩しいくらいにも思える笑顔で手を振られて、無理やり唇を持ち上げて手を振り返した。

 大丈夫だ。今朝はあれだけ寂しがっていたし、昨夜はあれだけ盛り上がったんだ。きっと、自分たちは大丈夫だ。そう信じたいが若い人間の一年はリヴァイとは違って長い。油断したら押し潰されてしゃがみこんでしまいそうだ。

 何度も振り返っては手を振るエレンがいよいよ遠くになったとき、最後に思い切り手を振ってくるりと向こうを向いてしまう。その瞬間、悲しげにぐしゃりと顔を歪めるのを見てしまった。

 目の奥が熱くなり、鼻の奥がツンと痛む。公共の場だが情けない顔を取り繕うことができそうにない。舌打ちを落として、歯を食いしばってがむしゃらに歩いた。大きな荷物を抱えた老夫婦が驚いた顔でリヴァイを見ている。子供を抱きかかえた若い男がぽかんと口を開けている。

「くそ、……!」

 まるで失恋への時限爆弾が作動しはじめたかのようだ。悲観的になるなんて自分らしくないと思いながらも、悪い妄想が止まらない。不安が精神を蝕んでいく。いつの間にか濡れていた頬を腕で拭って、目の前をじっと睨みつけた。

 前だけを見て、ぐらつく地面を踏みしめて歩く。エレンのように。