途中で何度も引きずりながらも、とりあえず住処であるボロボロの家に運んだ。一つしかないマトモなベッドを占拠されてしまったが致し方ない。泥だらけのスーツのせいで、シーツも汚れてしまったがそこも目を瞑った。半ば気絶のような状態でカバンだけは握りしめていたせいで、はみ出したカバンが動線の邪魔になっていることだけは看過できなかった。
「手、パーにしてください」
呼びかけてから、指を一本ずつ引き剥がす。ドサッと音がして、中から高そうな財布や分厚いファイルとともに、新聞紙にくるまれた何かが飛び出してきた。広げてみると、生の芋らしい。ビジネスバッグに不釣り合いだが、誰かからのお裾分けだと考えれば納得がいく。
思わず物色しようとして、そっと全てをカバンに戻した。芋だけは拝借した。
居間の暖炉は常に火を絶やさないようにしている。いちいちフリントで火花を散らし、そこから最終的に薪を燃やすまでの工程で長い時間を費やしてしまうのは非効率だとすぐに知った。もしも火事になってしまったら、そのときはそのときだ。
用意していた薪を足してから、汲み置きしていた井戸の水を鍋になみなみと張る。男を拾ったことで魚を捕りそびれてしまった。仕方がないと溜息して、必死に育てた畑の野菜をざく切りにして放り込む。野菜を煮たただの汁だが、ないよりはマシだろう。
鍋を暖炉の上部に吊るしてから、待っている間にと井戸水を組もうとポリタンクを二つ掴む。昔は水道を使っていたが、今ではゴーストタウンの外れにある井戸まで水を汲みに行かなければならない。水がないと皿一つ洗えず不衛生だ。部屋で男を寝かせたままなので、急ぎ足で向かった。
往復するだけで汗が吹き出し、顔が火照るように熱くなる。ふうふうと息を切らしながら戻ってこれば、男はまだ夢の中にいるようだった。
「まずは水、飲んで」
ゆさゆさと揺さぶって、無理やり上体を起こす。コップを唇にぴたりと付けると、ゆるゆると筋張った手がグラスを掴んだ。唸り声を一つこぼしてから、喉仏をこくりこくりとゆっくりと動かしている。
「野菜湯がいた汁、飲みますか」
男の頭がわずかに縦に動く。ここまで弱りきった人間を今までに見たことがない。皿にこんもりと盛った野菜汁のまずは水分だけをスプーンですくう。静かに、しかし念入りに息を吹きかけてから唇に押し当てた。
「……薄い」
もごもごと小さな声で吐き出される文句に、黙り込んだまま今度は野菜を唇に押し当てる。熱かったらしく眉を顰めた男は、スプーンを咥えて薄い唇でこそげ取った。
「染みるな」
傷でもあったのかと焦ったが、そういう意味ではないらしい。顔色は悪いままだが、面持ちは酷く満足そうだ。
「ありがとうな、自分で食える」
ちゃぷちゃぷと皿の水面が揺れる。相変わらず動きが鈍いが、確実に一口ずつ男の胃袋に落ちていく。全てを平らげたあと、小さな声でもう一度「ありがとうな」と呟くように言って、男は目蓋を閉じた。
顔色の悪い顔を観察するようにまじまじと見つめる。顔色もくまも酷いが、顔立ち自体は悪いわけではない。鋭すぎる目つきが目蓋で隠れた今はあどけなくさえ見える。すっと通った鼻筋と濃くも薄くもない睫毛。パーツ自体は童顔よりだが、表情や態度は随分と年上に見えた。
真っ黒の髪を指先で遊んでから、小さく息を吐き出した。ぼんやりとしている場合ではない。誰にも頼れないエレンはやらなければならないことに追われる日々だ。
『暗くなる前に戻ります。エレン』
書き置きを残して川の奥の森へと向かう。まずは薪を集めに行かなければならない。
井戸水を汲むことが軽く思えるほど、この作業はきつい。しかし火を起こし直すのはもっときつい。地面にいい具合の物がたくさん落ちていればいいが、毎日取りに行くせいか小枝がほとんどだ。
チェーンソーがあれば簡単に集められる。薪割り機があれば質のいい薪を一日で一週間以上分を簡単に作ることができる。分かってはいたが、村のものは全て爆撃でオジャンだ。
必死でかき集めたあとは、今度こそ魚を捕りに川へと向かう。小魚が数匹しか入っていないが、貴重なタンパク源だ。帰り道に少し迂回をして仕掛けた罠を見てみたが、動物が掛かっている気配はなかった。
畑にも寄りたかったが太陽が随分と下のほうに沈んでいる。真っ青だった空がオレンジと赤のグラデーションに染まり、急いで戻らざるを得なかった。
慌てたまま家に戻ってリヴァイを見に行けば、閉じた目蓋は薄っすらと開かれていた。
「起きてたんですか?」
「さっき、起きたところだ」
よろよろと起き上がる背中を支えれば、手に土が付いた。どろどろのスーツのまま寝かせたせいでシーツも土だらけだ。洗わなければ、しかし日は暮れかかっている。
「汗臭えな」
男の眉間に深々と皺が寄る。自分のことかとギクリと肩を強張らせたが、男自身のことだったようだ。
「すまねえ、お前の寝床、汚しちまったな」
申し訳なさそうに立ち上がってから、困った顔をしている。
「洗えばきれいになりますから」
「だが……」
「風呂なんてものはないんですが、水ならば浴びれますよ。井戸なんで寒いかも知んねえけど」
「なんでもいいから、洗いてえ。ここは、……シガンシナか?」
「そうです。井戸まで案内します」
男の顔が分かりやすく曇った。それもそうだろう。シガンシナは地図から消えた村だ。
タオルと着替えを持って日が落ちそうな外を歩いていると、男の顔はさらに暗く沈んでいく。
「生きてるのはお前だけか」
ゴーストタウン化した村は焦げたレンガが崩れて、草がぼうぼうに生えている。たった五年でこれだから、エレンが死ぬ前はどうなっているのか。
「オレだけ、無傷でした」
「そうか」
井戸に辿りつくときには、二人の間に会話はなかった。無言のまま服を脱げば、一瞬だけ戸惑いを見せた男も潔くスーツを脱ぎ去る。空腹で文字通り死にそうになっていた男だ。さぞかしガリガリに痩せこけているのだろうと思っていたが、実際は想像と正反対の体つきをしていた。
嫌味のないきれいな筋肉と表現すべきだろうか。ぱんと張った胸板と凹凸がくっきりしている腹筋。見れば腕も足もがっちりとしていて無駄な肉は一つもない。日頃から動き回っているエレンもそれなりに筋肉はあったが、男を目の前にすると自分の身体が貧相に見える。
じろじろと見てしまっていたことに気付いて、慌てて視線を逸らす。
「使ってください」
がこがこと井戸の手押しポンプを動かしながら場所を開けると、意図を汲んだリヴァイが水の前にしゃがみこんだ。視界の端っこで筋肉が濡れる。ムクロジの実を漬けた水をボディソープ代わりだと渡せば、黒髪や筋肉が泡で覆われた。慣れた手付きでレバーを動かしながら場所を交代すると、身体を洗いながらも男が場所を代わってくれた。
自分も水で綺麗に身体を洗っていく。身体中を泡まみれにしてから、一緒に服も洗ってしまった。男のスーツは濡らしてもよかったのだろうか。汚いよりはマシだと思い切って濡らすと、口角を上げた男が参戦した。
「エレンって、お前の名前か?」
首を傾げてから、書き置きに名前を記したことを思い出す。
「そうです。エレン・イェーガー。アンタのことはなんて呼べばいいですか?」
「リヴァイでいい」
遅すぎる自己紹介に、おかしくなって笑い声が漏れた。冷たい冷たいと言いながら交互に身体を流し合って、服の泡も全て流して、楽しんでいる自分に気付く。
この人は外の世界の人間だ。エレンのように戸籍が怪しいわけでもなければ、ライフラインなしの生活に適応しているわけでもない。きっと家族がいて、親戚がいて、友人だっている。
「じゃあ、リヴァイさん。早く元気になってくださいね」
体調が戻り次第、帰さなければならないのだ。エレンの孤独に巻き込むわけにはいかない。
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