畑に水を撒く作業はなかなか骨が折れる。川が近ければいいのだが、残念ながらゴーストタウンを挟んで反対側だ。井戸のほうがまだ少し近い。ただし、井戸までは緩やかな坂道を歩く必要があった。
「キツイな」
「雨さえ降ればいいんですけどね」
「シーナに住んでたときは、雨に降られたくなかったんだがな」
ポリタンクに汲んだ水が畑の土にどんどんと吸い込まれていく。ジョウロなんて気の利いたものはないために、畝と畝の間を重点的に水浸しにした。
「リヴァイさん、雨嫌いだったんですか」
「服が汚れんだろ」
手指も服の裾も泥だらけにしているが、本来は綺麗好きらしい。汚れるのが嫌だなんて言ってられないようだ。
「雨が降ったら、家ん中を綺麗にしますか」
「川に行ったら危ねえしな」
「そういうことです。雨上がりは魚がよく捕れるし、薪だって落ちてるし、畑だって水撒かなくていいからいい事ずくめですよ」
「そりゃあいい。雨が好きになりそうだ」
リヴァイの笑い方は静かだ。顔立ちに似合わず、ふふ、と小さな声で笑う。最初の死にそうな仏頂面が嘘のようだ。気が付けばエレンはニィと歯を見せて笑っていた。釣られているのか、そうでないのかが自分でも分からない。
「晴れた日は晴れた日で好きですよ。ずっと家の中にはいたくねえし」
空のタンクを抱えて、井戸までの緩やかな坂道を一歩ずつ歩く。さんさんと照りつける日差しは痛いぐらいに強く、水を入れるついでにキンキンに冷たい井戸水を頭から浴びてしまいたいぐらいだ。
「お前は外で元気に走り回ってそうだしな」
「どんな目で見てるのかよく分かりました」
「誤解だ。別に五歳児みてえな目で見てねえ。十五歳ぐらいだろ」
「当たりです。リヴァイさんは」
「三十代前半とだけ言っておく」
妙なところを濁された。一回り以上も差があるのに、こんなにもフランクに接していてもいいのだろうか。彼はエレンに対して必要以上に気を使っている節がない。ならば自分も、そのままでいいのだろう。
「オッサンですね」
あえて茶化せば「失礼だな」と笑われたので、きっとこのままの態度が正解なのだ。
あっという間にやるべきことが終わってしまったので、空がオレンジ色に焼けるまでに部屋を掃除してしまうことにした。本格的に家の中を掃除するのは初めてだ。人が二人住むためには、家の中に入り込んだレンガの欠片を除去しなければならず、自分だけのためにやる気が起きなかったのだ。
ビニルシートを捲っているお陰で、外でリヴァイが何やらガサゴソとしているのがよく見える。熱で歪んだパイプ同士を繋いでいるようだ。金槌やノコギリを駆使して、歪ではあるもののどうにか一体化させている。部屋の中のレンガの欠片や砂埃をどうにか外に掃き出している間に、リヴァイの姿は小さくなっていた。井戸にでも繋げるのかとも思ったが、遠すぎる距離を考えて、まさかなと思い直す。
両親が使っていたベッドは侵食した雨によって使い物にならなくなっていた。ずるずると引きずって外に出して、空いたスペースを濡らした布で汚れを丁寧に拭い取る。雑巾代わりの布は五年分の汚れに耐えられず、すぐに真っ黒に染まった。
寝床付近に置きっぱなしだったリヴァイの鞄を避けておこうと思って、ふと中の芋の存在を思い出す。芋を包んでいたのは色の変わった新聞紙だった。なんともなしに広げて見て、そのまま視線は文章に釘付けになった。外からの情報なんて今まで一つも知らなかったのだ。情勢も、事件も事故も。
もちろんエレンの住んでいるシガンシナに関する記事は一つもない。広告は便利そうな物をフルカラーで紹介しており、白黒の字ばかりの欄には宝くじの当選発表が載っていた。思わずベッドの下に仕舞ったままの紙切れを持って番号を見比べる。老夫婦の車から蛇を取った礼として貰った紙切れだ。
「うそだろ……」
宝くじに当たることなんて、事故で死ぬ確率よりもずっとずっと低いはずだ。一等に当たるなんて妄想すらしたことがなかった。しかし目の前に、新聞と同じ番号が並ぶ紙切れが存在している。これだけあれば豪邸を建てることもできるし、遊んで暮らすこともできるだろう。しかし一つだけ問題がある。宝くじの当選金額を受け取るには、口座を用意しなければならない。
新聞紙で当たりくじを丁重に包んでから、そっとベッドの下に仕舞い込んだ。頭の中がぐるぐるとこんがらがって、まとまらない。せめて何かをと掃除して、落ち着かないとシーツや石鹸代わりの物を抱えて外へと飛び出した。
「……何やってるんですか?」
思っていたよりもリヴァイは遠くにいた。長いパイプは井戸よりも少し遠くまで伸びている。
「水道、欲しいだろ」
「川の上流とは違う場所に向かってませんか」
「川の水は飲めねえだろ」
「じゃあ、このパイプはどこに……」
仕掛け網を設置している川は苔むした岩と岩の間から滝のように湧き出している。その先は土と木しか存在しないはずだ。彼は彼なりの考えがあるのだろうが、エレンには全く理解ができない。
「夕方前に戻ってきてくださいね。じゃねえと、汚いままで寝る羽目になりますから」
「ああ、分かった。待て、水出すんだろ」
ガコガコと井戸のレバーを操作するのを見て、さっとシーツを入れたバケツを下にセットする。頃合いを見て水を止めてくれたお陰で、汚れきったシーツを丹念に洗うことができた。石鹸代わりに使っているムクロジの実が有り余るぐらいにあったのはありがたい。秋になれば新たに実るお陰で、無駄遣いができるのだ。
濯ぐときもリヴァイが井戸のレバーを操作してくれた。当たり前のように手伝われて、くすぐったくて仕方がない。俯いていたがにまにまと顔がにやけているのはバレただろう。
「あの、オレ干してきますね」
石鹸のぬるつきを全て流しきったあと、絞りながら数歩歩く。
「あ、ありがとうございました!」
慌てて足した一言に頷きと揺れる手のひらだけが返ってきた。ついムクロジの実を入れた瓶を置きっぱなしにしてしまった。リヴァイも手を洗いたいだろうから、それでよかったのかもしれない。彼は綺麗好きらしいから。
木と家の間に通らせたロープにシーツを引っ掛けて、洗い替えのシーツをピンと張る。もしも本当に水がこの家に通るのなら、洗濯どころか掃除も調理も、全てがラクになる。
ただの飾りと化している蛇口を捻れば、きゅうっと派手な音が出た。当たり前だが水は一滴も出ることはない。宝くじが当たって心は軽やかに、そして不安定なほどにふわふわと浮かんでいた。足取りも一歩一歩が軽く、ポリタンクを持って井戸と畑を往復したなど自分でも信じられないぐらいだ。
口座が作れないせいで使えやしない宝くじ。これさえあれば、いざとなったときにリヴァイだけでも元の生活に戻れるだろう。
自分から見ればただの紙切れの宝くじは、半年過ぎたら誰から見てもただの紙切れに変わる。職も家もなくした彼にならあげてもいい。他にあげられる相手もいない。しかし、何故か踏ん切りがつかないでいる。もう少しだけ、人との生活を味わっていたい。
埃どころか土まで溜まっていた水回りは、水拭きだけで元の色を取り戻した。しかし金属部分はどうしても錆びてしまっているようだ。ヤスリぐらいならば家にもあったが目が詰まると厄介だ。
暖炉の薪を足して、余る時間を感じながら父親の服の裾や袖を縫っていった。洗い替えが二つあれば事足りるだろう。ついでに自分が着ていた服の裾の糸を切って折っていた部分を伸ばした。
父親の身長は見上げるほどに高かったはずだが、身体の成長とともに追いつきつつあるのを感じる。大人であるリヴァイはエレンよりも目線が低い。もしかしたら、すでに身体は立派に大人に変わっているのかもしれない。
有限である糸をリヴァイのために使うことに抵抗はない。身体が成長しきれば必要なくなるものだからだ。それまでに服の生地がもっている保証もない。それでなくともところどころ擦り切れて破れているものだ。
身長がどうであれ、この先何年使い続けられるかは分からないところだ。最悪動物の皮を纏った姿で生涯を終えることとなるのかと思うと、言いようのない不安に駆られる。考えないようにしたいが、孤独死と隣合わせ、そして気分転換できるような事柄のない毎日だ。
目元をがしがしと腕で擦ってから、縫い終わった糸をぷつりとちょん切った。
気分を切り替えて、家の中を整理する。布団の中綿はいざというときの火種や防寒用に、木の部分は薪代わりに使えるだろう。天気続きの今こそ、内部をしっかり乾かす好機だ。
母が使っていた化粧台は作業台代わりに残しておいてもいい。中に入ってきた雨水のせいで汚れきった絨毯は外に放り出してから、小さく切り刻んだ。洗えば雑巾代わりになってくれそうだ。
部屋の物を色々と処分すれば、ただの住処が家らしくなった気がする。外から差し込む光に色が付いてきたので、慌ててタオルと着替えを掴んで井戸に向かって駆け出した。
「リヴァイさん!」
ゴーストタウンから人の音が消えている。自分の声が虚しく木霊して、ざわざわと粟立つ両腕を手のひらで擦った。
「リヴァイさんー!」
「エレンか、こっちまで来てくれ」
普段は行かない山の方からリヴァイの声がする。井戸の上側にひょいと服やタオルを引っ掛けてから、全力でゴーストタウンのすぐ横を通り、人の通った気配がする獣道を駆け抜けた。ぶんぶんと飛ぶ虫を両腕で払って、ぐんぐんと風を切る。木の葉がカサカサと上で奏でる音を聞きながら薄暗い中で汗を落とした。
「っ……! びっくりした……」
つま先が何かに引っかかって転びかけてすんでのところで踏みとどまる。足元にはパイプがまっすぐ奥に向かって伸びていた。半日でここまで伸ばしたらしい。ゴーストタウンにここまでまとまったパイプが存在したことも、それを見つけてここまで伸ばしたことにも驚いた。
「リヴァイさん……?」
がさりと草を踏む音がして恐る恐る目を凝らすと、草の間に茶色い何かがごろりと転がっていた。その奥には背を向けたリヴァイの姿。物凄く獣臭いし血なまぐさい。
「ああ、大丈夫だ。死んでる」
「……は?」
茶色い何かはでかいイノシシだったらしい。リヴァイはと言うと、足元に転がるそれを無視して、パイプ同士をどうにか合わせていた。
「これでラストなんだ」
「何、え、何なんですか?」
「この奥を見てみろ。ぶらついているときにたまたま湧き水を見つけてな」
パイプ同士をがちりと合わせたあと、繋ぎ目をカンカンと叩きはじめている。叩いている音と音の間に、かすかに水音が流れているのが聞こえた。リヴァイの言う通りに奥側を見てみると、中途半端に切られたパイプとノコギリが転がっており、さらに奥の木の根の間に金属のパイプがぐっさりと刺さっている。上流にある水が一旦ここで地表に出て、再度土の下に潜っているらしい。地面が濡れているところを目で辿ると毎日のように向かう川の上流に向かっている。
「それで、このイノシシは」
「見かけたから狩った。悪いが、運ぶのを手伝ってくれないか」
「……え? いや、いいですけど、……は? 見かけて、狩ったんですか?」
拾った男はとんでもない人間だ。やはりサラリーマンではないのか。リヴァイと喧嘩したらしい社長はまだちゃんと生きているのか。
「肉、食いてえだろ。捌くのも手伝ってくれたらありがたいんだが」
ハッとして上を見上げる。オレンジ色がどんどんと濃くなっていた。
「急ぎましょう。貴重なタンパク源で、貴重なミネラルです。井戸の前で捌きますよ、ナイフは持ってますか」
「ナイフか……持ってる」
イノシシをごろりと足で転がしたあと、ずぶりと肉が切れる音がして総毛立った。刺しっぱなしにしているのは、持っているのと少し違うのではないか。
ナイフを刺していた場所にぐりぐりとノコギリを刺したリヴァイは、地面を踏みしめてイノシシを横抱きにして持ち上げている。自分はいらないのではないかと思いながら、下から掬うようにして手伝った。おぞましい光景を見ないようにして坂道を下る。
パイプの隙間からちろちろと水が漏れている場所を見つけたが、今はそれでころではない。手元や服が血でベタベタに染まっているが、それも今考える部分ではない。日が暮れる前になんとか処理しないと野犬が来かねないし、ゴワゴワの毛がチクチクと刺さるのが地味に痛いし、横の涼しい顔をした男が恐ろしくて仕方がなかった。頭の中はぐるぐると混乱中である。
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