「エレン、行くぞ」

 先導して歩くのはいつの間にかリヴァイに成り代わった。二人で食料調達を行って、空いた時間にエレンは調理や洗濯、リヴァイは家の修理や改造を行うのが最近の日常だ。どうしても暇な時間が増えたために家はどこもかしこもピカピカになっている。夏の盛りに出会った二人は、すでに秋の香りを味わっていた。

「ハーブや食べられる野草を大分と覚えたな」

「リヴァイさんのお陰です」

 穏やかな坂をゆるやかに下る水路は、朝の光を受けてキラキラと輝いている。井戸から畑へと繋がる小さな水路だ。井戸水を出しさえすれば、畑まで水路を通って少しずつ水が流れていく。多少粗い作りのために、酷い大雨に晒されればまた作り直さなければならない。しかしまた作ればいいのだ。すでにエレンは作り方を学んでいる。

「ある程度生きていく知識がついたところでだ、エレン。手伝ってやるから、勉強してみる気はねえか」

「……勉強ですか?」

 誰とも合わない、ただ毎日身体を動かしては寝る生活でそれは必要なのだろうか。ある程度の事柄さえ学べればそれでいい気もするが、簡単に否定するにはリヴァイの目が真剣すぎる。

「十歳までは勉強していたんだろ」

「していました。村の端に二階建ての建物跡があったと思うんですけど、そこが学校でした」

「運動場も何もなかったが……」

「広場がありますから」

「なるほどな。……だからか、妙に教科書類が揃っていると思った。てっきり役場か何かだと」

 シガンシナは元々村民の数が少なく、義務教育中の子供は合わせて十人もいなかった。六学年が一つの教室に集められて、年下の面倒を見ながら勉強をする。中学生も同じ校舎の別の教室を使っていた。高校に入って初めて、村の外に出ていくのだ。

 エレンは小学四年生だが、一番年下だった。上級生たちにえらく可愛がられた記憶が色濃い。

「レンガ造りの建物の中で、あれだけコンクリでできてるなとは思っていた」

「都会の学校はでかいんですよね。給食とか制服があって、プールもあって」

 中学生に上がっても皆それぞれ私服に身を包み、給食ではなく各自弁当を持参する。体操服のみ存在していたが、着ても着なくても何ら問題はなかった。プールがないため、生まれてから一度も水着を着たことがない。女はともかく、男たちは当たり前のように下着で川に飛び込んでいた。

「なんだ、泳げねえのか?」

「川でしか泳いだことがねえから、でかいところでどう泳げばいいか分からねえ」

「馬鹿、川で泳ぐのが一番危ねえんだ。下流でだろ? なかなかに勢いがいいし、妙に深い部分がある」

「ああ、危ねえから小せえときは行っちゃ駄目だって言われましたが……そっか、プールは流れがなかったですね、そう言えば」

 上流ならば許可は簡単におりたが、下流になると最後まで一人では行くなと耳にタコができそうなぐらい念入りに言われていた。未だ、一人で下流に入ることはない。癖のようなものでもあるが、下流に入る必要がなかったためだ。

「お前を都会に連れていきてえ。いい反応しそうだ」

「多分借りてきた猫みたいになりますよ」

「それはそれでいいな」

 土まみれの手が、エレンの髪をぐしゃぐしゃに引っ掻き回した。目尻を下げた優しい顔は駄目だ。安心を呼ぶはずの手のひらが、動悸を誘った。

 

 食料調達が終わればすぐに風呂場で汗を流した。溜めたままの水は生温くて気持ちがいい。服も靴もついでに洗ってしまおうとして、やんわりと手で制される。

「あとで俺がやる。お前は勉強」

「えっ、今から? もうはじめるんですか?」

 渡されたタオルからはふわりと爽やかなハーブの香りがした。部屋の奥からは昼飯用の匂いがふわりと漂っている。

「お前は小学何年生だった」

「四年生です」

「ビンゴだな」

 エレンが勉強をすることの何が嬉しいのか。リヴァイが表情を緩める意味がちっとも分からない。

 

 部屋の奥からは昼飯用だろう、野菜と肉が煮えた匂いが漂ってくる。エレンの仕事を奪った張本人は、ずらりと並べたボロボロの教科書の中から算数をチョイスして小さな机に広げた。

「これ、どっから持ってきたですか?」

「学校だ」

 エレンが使っていたものとは少しデザインが違っている。予備なのか、それとも上級生が置いていったのか。

「理科とかじゃ駄目なんですか? 算数なんて今まで役に立ったことないですよ」

「いや、これから役立つ。家を修理したのは、その算数の知識が土台にあったからか」

「マジか……」

 並んでいる教科書は国語算数、理科社会。満遍なく学ばなければならないようだ。

「……社会も、いらねえんじゃねえかな」

「先人たちの行いも役に立つ。考え方が広がれば、いざ何かあったときに解決できる」

「じゃあ、いらねえ教科は」

「一つもねえ」

 あっさりと、しかし迷いなく断言された。自分が学ぶべきことは生活に密着した理科や家庭科だと思っていたが、違うらしい。

 教科書を開けば、久々に文字というものを目にした。リヴァイの鞄に入っていたものが、最後に目にした文字らしい文字だったのだ。

「ここは、習ったか」

「習いました。多分この辺かな……」

「角度か。クソ懐かしいな」

 学校では禁止されていたシャーペンを握った瞬間、妙な高揚感が胸を覆う。消耗品であるはずの芯を使うことに抵抗は一切なかった。期間限定の勉強だと分かっているからだ。

 

 ある程度放置を覚悟していたのだが、リヴァイはなるべくぴったりとエレンについて教えてくれた。まるで家庭教師だ。

「ここからここまで、解いてみろ」

 そう言って放置して洗濯や掃除をすることもあるが、それ以外は先生よりも分かりやすく教えてくれる。適度な休憩を挟みながらのスタイルは授業そのものだ。

 戻ってきたときに例題を見ている顔は真剣そのもの。合っていたら頭を撫でながら褒めて、間違っていれば分かるまで教えてくれる。先生というよりも、家族や兄弟にようだった。

「そろそろ晩飯食って、風呂に入るか」

「もうですか?」

「暗くなったら、色々大変だろうが」

 ほとんど何も見えない状態で風呂に入る姿を想像して、げんなりと眉尻を下げる。真っ暗な中の食事も嫌だ。今は暖炉に火を灯すことはない。暑いからと、台所に種火を置いたままだ。

 すんすんと鼻を鳴らして、得意顔をする。

「燻製肉と野菜のスープ、あと焼いた魚!」

「正解だ。野菜は何か分かるか?」

「かぼちゃと……なんですか?」

「玉ねぎだ」

 予想以上に甘いスープができていそうだ。だが、嫌いではない。むしろ好きだ。

 

 初めて食べるリヴァイの手料理に目を爛々と輝かせる。

 野菜の切り方一つで、神経質かつ几帳面な性格が表れている。綺麗に切り揃えられたカボチャは全て同じ形をしていた。玉ねぎも厚みも同じくだ。

 具材と一緒に煮込まれていたのは月桂樹の葉だ。リヴァイが教えてくれたハーブの一つで、近所の庭木がそうだったらしい。

「塩があれば、もっと美味かった」

「もうちゃんと美味いです、甘くて」

「そうか?」

 声色こそ淡々とした色のないものだったが、顔付きが嬉しそうだ。出会ったころは険しい顔、一週間ぐらい経てば表情豊かだと思い直したが、今では存外単純な男なのではないかと評価を改めている。そう思わざるを得ないほどにリヴァイはエレンの言葉一つ、行動一つで驚くほど顔色が変わるのだ。すぐに嬉しそうに目尻を下げて、優しげに眉尻を下げて、穏やかに口角を緩く持ち上げる。

 几帳面なスープと一緒に並んでいるものは、これまた几帳面な焼き魚だ。綺麗に中綿を取り除いて、表面を丁寧に洗っているらしい。串にぶっ刺してすぐに焼くエレンとは大違い。料理一つで性格の違いをまざまざと見せつけられた気分だ。それが楽しくて面白くて仕方がないのだから重症だ。

「これからしばらく俺が作る」

 エレンが満足そうに食べていると、ぽつりとそんな不穏な呟きが聞こえた。

「なんでですか?」

「お前に勉強を叩き込む」

 突っ込めばさらに不穏な台詞が漏れる。何故、ここまで乗り気なのかは依然分からない。

 

 時間と薪の節約だと二人で入浴することに全く違和感はない。井戸の前で身体を洗っていたお陰だ。ほどよく温かい湯船からたつ湯気は、開けっ放しの窓からふわふわと逃げ出していく。狭い湯船は二人も入ると窮屈だ。身じろぐたびにちゃぷちゃぷと水面を大袈裟に揺らす。

「なんか、ずっとリヴァイさんと暮らしてた気分です。まだ二ヶ月も経ってねえのに」

「俺の家が燃えて二ヶ月か。随分と前の出来事な気がする」

 さらりと言われた言葉に、笑えばいいのか同情すればいいのか分からない。しかしリヴァイの顔があまりにも普通で、ふは、と吹き出した。

「燃えてからって、すげえ重いカウントですね」

「そうか?」

 きょとんとした一回り年上の男は、エレンが笑えば笑うほど、不機嫌そうに眉根を寄せる。濡れた眉間を指でぐりぐりと擦ってやれば、簡単に皺が消えた。

「やめろ、湯が目に入る」

 文句を言う顔も声も酷く愉しそうだ。嫌がっている素振りを見せるくせに、消えた眉間の皺は戻らない。

「リヴァイさんは、元の暮らしに戻らないんですか?」

「お前、俺を追い出してえのか」

「まさか!」

「ビックリしたじゃねえか……ここに置いといてくれるんだろ?」

 まだここにいるつもりのようだ。ホッと安堵の息を吐きかけて、静かに飲み込んだ。これではリヴァイといたいことがバレバレだ。この人を元の暮らしに戻してあげたい、でも離れたくない。理由は分からない。

 

 同じベッドの中で、月明かりを浴びるリヴァイを静かに見つめる。かすかに聞こえる寝息に耳をそばだてながら、もぞりと身を寄せた。

 温かい手がまっすぐに後頭部を包み込んで、心臓が張り裂けそうな動悸を固唾をのんで感じ続ける。自分はどうしてしまったのか、いくら考えても答えが出ない。

 分かることは、このままでは不味いということだけだ。熱いため息を吐き出して、服の上から心臓をぐっと抑え込んだ。

 リヴァイの寝息がふっと静かになり、気配ががらりと変わる。起きてしまった。あやすように胸元を撫でればまたすぐにスウスウと寝息をたてはじめる。すぐに起きてしまうが、彼は寝直すまでが早い。そんなときは決まって翌朝はよく覚えていないのだ。

 また起こしてしまわないようにと、腕の中に潜り込みながら目を閉じた。外気も体勢も全てが暑苦しいはずなのに、何故かひどく安心した。

 

 

 蛇口を捻ってバシャバシャと顔を洗う。何故リヴァイといると動悸が激しくなるのか、どうして手放したいのに、手放したくないなんて矛盾した思いが押し寄せるのか。分からないまま、乱雑な手付きでゴシゴシと顔を拭った。

「昨日、眠れなかったのか?」

 すでに顔を洗い終わったリヴァイが、エレンの下瞼をするりと親指で撫でる。どきりと心音を立てる胸に内心疑問を感じながら、小さく「目が覚めた」とだけ伝えた。

「どうした、便所か」

「便所行こうとしたらリヴァイさん目ぇ覚めるでしょうが」

「まあな。俺のサーチ力と警戒心を舐めんな」

 前にトイレに起きた瞬間にカッと目を見開かれたときは度肝を抜いた。目を一度も擦ることなく外に作ったトイレまで連れて行ってくれて、さらにはちゃんと待っててくれて恥ずかしいのと申し訳ないのとで大変だった。

「心配性な保護者がいるんで、ちゃんと寝る前に行く癖を付けましたよ」

「いつでも起こしてくれていいんだが。仕事をしていたときは、もっと短い睡眠時間で生きてたしな」

「今は電気ないから、起きててもやることなんてないですからね」

「ああ、真っ暗闇で理由のない作業はちょっとな。そんなことするぐれえなら、明るいうちに全て終わらしちまったほうがマシだ」

 例え台所に行ったところで、小さな炎を頼りに何か作業ができるだろうか。大まかなことができたとしても、緻密な作業は不可能だ。二人とも暗くなれば寝て、明るくなる少し前に起きる。薄暗闇でトイレに行って用を足し、オレンジ色の明かりの中で顔を洗って身支度を整える。

「無理なくできるのって、寝直すことぐらいですよね」

「それもそうだな」

 あとはリヴァイに身を寄せて、匂いと体温を感じて、少し先の未来を思い悩むことぐらいだ。宝くじは相変わらず新聞紙に包んでベッドの下側に隠している。掃除をしているときに見付からないようにと、ベッドの底に針金で固定する念の入れようだ。思い出すたびに黙っていることの罪悪感が胸をチクチクと小さく刺して痛い。

 エレンの中では宝くじを渡すことが確定していた。しかし、渡すタイミングを逃してずるずると現状に甘えている。

「朝飯食ったら、デザート食いに行きたいです」

「メインは昼以降の食料調達だからな」

「分かってますって」

 昨日の残りの汁物は、味が馴染んでさらに美味くなってそうだ。涼しくなってきたお陰で川べりでぶら下がっている果実も増えた。しかし動物たちは警戒心豊かな面構えでうろついている。繁殖の季節だからだ。リヴァイがいなければ、嫌な動悸を味わいながら川や森に向かっていただろう。

 

 リヴァイによって改善がなされた川の仕掛けには、二人で食べるにはちょうどいいやや大振りな魚が掛かっていた。森に仕掛けている罠には相変わらず動物は掛かっていなかったが、リヴァイがヒュッとナイフを投げて動物を仕留めてしまったので、今日もタンパク質には困らなさそうだ。

「リヴァイさんが持ってるときだけ、そのナイフが投げナイフに見えます……」

「投げやすいわけじゃねえぞ、特に」

 エレンの持っていたナイフを使って、びっこを引く獲物にザッとトドメをさしている。首を掻っ切って尾を切り、歩いて行く先はすぐそこの川の下流だ。血抜きをしたいのだろう。

「じゃあなんでまっすぐ獲物まで飛ぶんですか……投げナイフどころか矢じりですよ最早」

 人間にあるまじき動きをしているのは最初からだ。初対面時に森で倒れていなければ、人間かどうかを疑いはじめるところだ。じっとりとした目で見ながら、すぐ上で鳴る実を一つもぎ取った。今日の獲物は小さめだ。川を使って血抜きさえすれば、すぐに捌き終えるだろう。イノシシや鹿に比べて遥かに容易い。

「殺人現場みてえだな」

 一気に赤く染まる川を、遠慮なく利用しておいてよく言う。ついでとばかりに内臓を出して綺麗に洗えば、ゆっくりと川の水から赤みが流れて消えていく。血を綺麗に流せる上に肉が冷えて一石二鳥だ。もいだ果実を咀嚼しながらできるほど度胸がついたのは、この村から人が消えてどのぐらい経ってからだろうか。

「お前、よくバラしながら食えるな」

「見つけた瞬間とっ捕まえてトドメまでさした人がそう言いますか」

 まさか今更そんなことを言われるとは思わなかった。唇から溢れた果汁を手の甲で拭ってから、出した臓物を魚が入っているクーラーボックスに放り込む。

「刃物持ったまま食うって危ねえだろ」

「そこか……」

 都会で育ったくせに、自給自足は初めてのくせに、リヴァイは少しズレている。明らかに笑いを堪えた表情に、むっと眉根を寄せるのは反則だ。

「ガキが刃物を持ってるとどうも危なっかしくて見てられねえ」

「そこらの二十歳過ぎのやつより、よほど使い慣れてんですけどね」

「見た目の問題だ。刃物使うどころか、親の手伝いすらしなさそうに見える」

「間違ってはいませんけどね。親いねえし」

 親がいたなら、きっとなんだかんだ言われながら手伝いをしていただろう。親が死ぬまでは、小さな家事はちょこちょこと手伝わされていた。

「てめえ、ブラックジョークも大概にしろよ。どんな顔していいか分からねえだろうが」

「昨日家が燃えたことを軽く言った人には言われたくないです」

 獲物の皮にザリ、と刃を入れた。この動物の毛皮はきっと、冬場に役に立ってくれるだろう。

「皮のなめし方は知ってますか?」

「さすがに知らねえな」

「羊皮紙の作り方知ってたくせに……」

「あれはたまたまだ」

 リヴァイの知識は妙なところで偏っているらしい。

 

 結果、自己流で行うことにした。後日完成した毛皮は酷くごわついていたが、植物の油を何度も塗れば柔らかくふわふわに生まれ変わった。

 糸は作れないが、紐やロープならば植物から作れるようになっている。小学四年生までしかなかった知識も、今では五年生と一つランクアップした。リヴァイのお陰で、どんどんと自分の知識量が増えていく。生活も何もかも、変わり続けている。

 

 宝くじの期限まであと三ヶ月になったとき、エレンはリヴァイが教えていない知識を実生活で手にしていた。それはどの教科書にも載っていない、しかしほとんどの人が当たり前に知っていくものだ。

 夜中にもぞもぞとリヴァイに身を寄せて、胸板に耳をひっつけた。聞こえる心音はエレンのものとは真逆で、ゆっくりと穏やかだ。エレンが実生活で得た知識、それは恋心。一回り以上年齢の離れた同性に恋をしている。元の生活に戻したくなくなるはずだ。

「……なんだ、起きたのか」

 ろれつの怪しい低い声がすぐ上から降ってきた。完全に起こさぬように、ぽんぽんと背中を撫でる。

「起きてないです、おやすみなさい」

「おやすみ、エレン」

 仕事だって勉強だって、なんでもできるこの人を元の暮らしに戻したい。全てを失って可哀想だからではない。幸せに、人らしく暮らしてほしい。

 好きな男を手放すことをようやく決意したエレンは、寝息をたてはじめた唇にそっと己のそれを重ねた。かさかさに乾いて、暖かく、柔らかかった。自分の大胆な行動を受けて、顔どころか身体中が熱い。

 ああ、好きなんだ。リヴァイのシャツにぎゅっとしがみついて目蓋を閉じた。このまま寝ても寝相だと誤魔化せるだろう。出会ったころは一日中暑かったが、今では朝や夜はひやりとした空気が漂っている。

 一週間。一週間後にさよならだ。これ以上伸ばさないために期限を決める。それまで、精一杯リヴァイのことを感じたい。