お別れを決意してから、リヴァイとの距離感を変えようとは思わなかった。もしもリヴァイが離れがたいと思ってしまえば呆気なく計画が壊れてしまう。

 それでなくとも、友情に近い感情を彼から感じていた。裸の付き合いなんて言葉もあるぐらいだ。初っ端から全裸で水浴びをするのはまずかった。

 

「リヴァイさん、現代の人間らしい暮らしをしたいですか?」

 今日の夕食は肉と野菜のハーブ炒めと焼き肉だ。クーラーボックスには、明日の朝に食べるための魚がひんやりとした湧き水の中で沈んでいる。

 肉の脂で炒められた野菜がカトラリーからずるりと滑った。ただの世間話だと思っているのだろう。一瞬見せた呆け顔が、すぐに元に戻る。

「雨を気にしなくてもいい、スイッチ一つで部屋が明るくなる暮らし。どうですか」

「してえに決まってんだろ。お前にも、してほしい」

 引き出せた言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。また「追い出すつもりか」なんて話を逸らされなくてよかった。

「オレには無理だけど、アンタは金さえあればできる。オレには無駄な紙切れを役立ててほしい」

「…ああ?」

 あらかじめ用意していた物を、すっと机の上に乗せた。色の変わった新聞紙で包まれた当たりくじだ。

 新聞紙に包んだままの当たりくじの保存状態は抜群だ。中身を取り出せば、何を意味しているのか分かったのだろう。

「……本気か?」

 新聞紙と宝くじを交互に見て、深々と重苦しいため息を吐き出される。まるで離別を言い渡す夫の気持ちだ。表情で気持ちを悟られないように奥歯をギリギリと噛み締めて、こくりと頷いた。

「お前を連れて帰る」

 舌打ち混じりの台詞は本気だろう。助けられるだけ助けられて追い出しにかかるエレンと違って、リヴァイは誠実な男だ。怯むことなく頭を横に振る。

「帰るって、家も何もないでしょ」

「ホテルを取ることだって――」

「有り余るような大金だけど、大事に使ってくださいよ。免許証の期限まだ残ってますよね? それで口座作って交換して、さっさと人間らしい暮らしを見つけてきてください」

 わざと冷たく突き放した。一息に言い放ったあと、痛む心から目を逸らす。

「……明日には、さよならしましょう。生活に利用する形になってすみません、楽しかったです」

 食事中に言わなければよかった。リヴァイが作ってくれた夕食から一切の味が消え失せた。

 空になった器を片付けているとき、呆然とした顔が怒りに歪んでいくのを視界の端で捉える。初めて見る表情は背すじを凍らせるほどの迫力だ。これでいい、これでよかった。

 食卓からリヴァイが動かないことをいいことに、そっとベッドに逃げ込んだ。こんな空気でも同じベッドで寝るのだからお笑い草だ。

 最近は夜中に起き出しているせいで、こんなときでも睡魔はきっちりと訪れてしまう。結局普段寝る時間ぴったりに、意識がぷつりと途絶えた。胸の奥がしくしくと泣いている。

 リヴァイに与えられる安らぎを、もう二度と味わうことがないのだろう。褒められることも、一緒に笑うことも、狭い湯船に浸かることも、同じ布団で眠ることも。朝一番に話しながら食事を取って、二人で森や川に行って、人間離れしたスキルを見ては驚いたり笑ったり。

 そんな日常は、もうおしまいだ。彼は現代人らしく暮らす権利がある。綺麗な奥さんと可愛い子供に囲まれて、清潔で便利な家で過ごす。そんなありきたりな幸せを噛み締めて生きてほしい。そしてたまに、憎たらしいガキがいたなと思い出してほしい。

 

 意識がすっと浮上して、視覚が真っ暗な室内を捉える。隣で眠るリヴァイはエレンのほうを向いていた。まるで夕食時のやりとりがなかったかのようだ。

 すうすうと穏やかな寝息を聞いて、急に鼻の奥がツンと痛んだ。肺の動きがバグり、ひっひっと呼吸が引き攣っていく。目がグズグズに熱くなり、我慢していたはずの涙がとめどなく皮膚の上を流れていく。

 エレンの気配を察知したのか、リヴァイの目蓋がゆっくりと持ち上がった。

「起きちまったのか、エレン」

 こんな言葉まで、日常を綺麗になぞっている。震える手でぽんぽんと背中を撫でて、必死に呼吸を整えてから精一杯の笑顔を貼り付ける。

「起きてませんよ。おやすみなさい」

 声は震えていないだろうか。ぽとりと落ちた涙を誤魔化すために俯けば、ぱたぱたとシーツに染みが広がっていった。彼が不審に思ってしまわないだろうか。じっと息を押し殺して、ただただあやすように背中を撫でた。

「そうか……おやすみ、エレン」

 掠れた声でそう言ったリヴァイは昨日までと同じように目蓋を下ろした。安堵の息を吐き出す暇なく、エレンの身体ががちりと硬直する。伸びてきた腕に抱きしめられてしまったからだ。

 まるで縋るように、その手はエレンの背中側のシャツを握り締める。リヴァイの背中を撫でたままだった手のひらは、しばらく迷うように彷徨わせたのち、同じようにぎゅっと抱き返した。どうしたものか。こんがらがった頭の中は、時間をおいても整理できないでいる。あんなことがあったあとでもすんなり訪れた睡魔が、しばらく戻ってきそうになかった。

 睫毛が触れ合いそうな位置でリヴァイは静かに寝息をたてている。密着した身体からは、穏やかな心音がシャツ越しに伝わってくる。大して動くことなく、目の前の唇に己の唇をゆっくりと重ねた。かさかさに乾いた唇を、自分の涙で濡らしてしまった。人生で最後であろうキスが、苦しくて切ない。

 

 リヴァイに起こされたのなんて初めてだ。ゆさゆさと揺さぶられて、ハッと息を飲みながら飛び起きた。

「さよならの日にぐうすか寝るなんざ、随分じゃねえか?」

「す、すみません……?」

 どうにか頭を回転させるために、よろよろと顔を洗いに進む。雨戸を閉めたままの薄暗い家だが、リヴァイが丹念に掃除をしてくれているお陰で安心して歩き回ることができた。これからは一人で掃除して、この状態を保つのだ。部屋が綺麗なだけでも涙腺を刺激されていけない。

 顔を洗い終えると、そっと手を掴まれて外へと出された。燻製用のレンガの近くに、廃材で拵えた机と簡易の椅子が並んでいる。

「最後は、この村を見ながら飯を食いたい」

 机の上には、相変わらず神経質に切り揃えられたスープ、そして炒めものに焼いた肉が用意されていた。素材そのものの素っ気ない味すら消え失せた食事が、二人の最後の食事だ。

 ちゃんと味わいたいと思えば思うほどに、味蕾は何もキャッチしてくれない。歯ざわりだけを虚しく感じながら咀嚼する。

 ちらりと盗み見たリヴァイの顔は、別段穏やかでも無表情でもなく、静かな怒りをにじませたままだった。寝て起きても引きずるぐらいに怒らせた相手を、簡単に忘れるだろうか。非現実じみた暮らしをした相手を、恩を仇で返すような相手を、記憶から抹消するのにどのぐらいかかるだろうか。

 自分のことは忘れられない。確信した瞬間に現金な味蕾はすぐさま味をキャッチした。焼いた肉にかぶりつけば、力強い野生の味がじゅわりと口いっぱいに広がる。悲しくて苦しくて寂しいせいで、自分は少し狂ってしまったのだろうか。

「食ったら、道案内しますね」

 食器を片付けようとして、腕を捕まれ制される。

「中座すんな。最後まで顔見せてろ」

 能面のような顔がもそもそと咀嚼して、ごくりと嚥下している。視線を合わせながら食事する光景をじっと見る。最後の最後で妙な空気だ。最後の一口が喉仏を上下に動かしたのを見て、すっと立ち上がった。

「案内してくれんだろ。お前の朝の外出セットはもう用意している。日が暮れる前に行くぞ」

「は、はい……」

 怒っているくせに、効率的で無駄がない。早めに出なければ近くの街まで辿りつくのに時間がかかるだろうことと、案内役のエレンを暗くなる前に家に帰すことを考えているのだ。

 

 大きい道路まで案内すれば、そこからは口頭だけで説明は事足りる。そして、その大きい道路まではそこまで離れてはいない。川を渡って森を抜ければすぐそこだ。ザクザクと木の葉の音に混じって、ぱきりと時折小枝の折れる音がする。リヴァイのこれからの生活を応援するように、鳥は軽やかに上空でさえずっているのが、二人の空気の重さをさらに浮き彫りにするようで嫌だ。

 最後になんて言えばいいのか。まだリヴァイは怒っているらしく、むっとした顔で斜め後ろを歩いている。川の上流をまたいで、二人で初めて行く獣道をぐんぐんと進んだ。

 土地勘があるエレンでも、ほとんど通ったことのない道だ。大ぶりのナイフで藪を斬りながら進めば、遠くから微かに車の音が響いてきた。別れの時間まで秒読みだ。嘘でした、そう言って笑って謝って、二人で家に戻りたい。出しっぱなしにした食器を並んで洗って、二人で一旦汗や泥を流して、勉強は休憩だなんて言いながら洗濯や掃除をしたい。しかし、今を逃せばずるずると長引いて当たりくじの期限を失う。リヴァイの未来が消えてしまう。奥歯がギリギリと嫌な音をたてた。

「ここまでですね。あちら側に歩けば、人の多い街に着きます」

 唇は淡々と別れの台詞を紡いだ。

「今まで、あり――」

 ぐんと近付いたリヴァイがエレンの襟首を強く握り締める。訳が分からぬまま硬直していると、怒ったような顔が近付いてボヤケて、そのまま唇にむにりと柔らかい感触がした。何故リヴァイが、何故自分に。

 唇の表面をべろべろと舐められて、顎のほうまで垂れた涎でべとべとに濡れる。口の端から指を突っ込まれて無理やり開かされ、舌をぬるりと差し入れられた。キスが愛し合う者たちのスキンシップであることは知っているが、舌を入れることが何を意味するのかがわからない。

 ぼやぼやしている間に、口腔を犯す舌は暴れだす。鼓膜に直にリヴァイの水音を聞かされて、背すじがぞわぞわと小さく震えた。まるで唇から粘膜まで食べられているみたいだ。舌の平も裏も、上顎も頬までも丹念に舐められて愛撫される。体温がじんわりと上がっていって、身体から力が抜けていく。リヴァイの舌によって身体が作り変えられている。

「っ……」

 荒くなった呼吸が二人の肌をくすぐった。思わず身体にしがみつこうとして、慌てて離れるように押し返す。

「エレン、てめえは別れだと思ってるだろうが……」

 道中ずっと一文字に結ばれ続けていた、濡れた唇が動き出す。

「これは別れじゃねえ。俺の言葉を聞かねえで突き放しやがったことを怒ってるからな」

 返事どころか頷くことさえできず、棒立ちのままリヴァイを丸く開いた目でじっと見ていた。濡れて光る唇の下側を、エレンの口内に突っ込んだ指でぐい、と拭っている。

「次に会うときは覚えてろよ」

 忌々しげに舌を打ったリヴァイが、エレンが教えた方向へと歩きはじめる。最後の最後に頭がくらくらする口付けを残して、どんどんと遠くに歩いていく。カーブで完全に姿が見えなくなってもまだ、呆然としたまましばらく立ち尽くしていた。