エレンはトランクだけを置いてすぐに部屋を出たらしく、部屋のどこも乱れた形跡を感じられない。トランクを開けることすらしてないようだ。
「狭い部屋ですが」
「俺の部屋も変わらねえよ」
「出張で来ててでかい部屋は泊まらないでしょうしね」
「そりゃあな」
レジ袋から出した瓶ビールは二本を除いて冷蔵庫に入れられる。
「飲まねえのか?」
「冷えていたほうが美味くないですか?」
ビールをわざわざ冷やすなんて、コーラのようだ。巷ではフローズンビールなんてものが流行っているが、それとも違う。ヨーロッパでも常温で飲んだが、それはドイツとは違っていたのか。細かく思い出せずに、グラスを一つだけ持ってくる姿をぼんやりと見守った。
「あー……他の国では常温でしたね、そう言えば」
「お前の国も行ったことがあるんだがな」
「きっと飲まなかったんですね。もったいねえ。……え? オレの国にも来たんですか?」
瓶ビールとコインを持ったエレンが口をあんぐりと開いている。リヴァイはエレンが手にした物の組み合わせに首を傾げながら、「何度か……」と頷いた。
「じゃあ、ドイツ語も話せるんですか?」
「話せるが、片言だぞ」
「聞きたいです! 自己紹介してくださいよ、趣味とか!」
自己紹介と言われて頭をうんと頭を捻る。
「リヴァイ・アッカーマン。年は三十八歳で趣味らしい趣味はない。強いて言うならば掃除が好きだ。好きな掃除用品はクレンザーだ」
「発音ひでえけど文法完璧ですね! しっかし、発音はすげえひでえし、趣味もひでえ」
母国語でけらけらと屈託なく笑う姿は少し幼く見えた。
「まあオレも掃除、嫌いじゃないですけど」
笑いながらエレンの手の中で瓶ビールがプシッと鳴る。コインの謎は解けたが、使用方法に度肝を抜かれた。
「栓抜きなしでよく開けられたな」
「オレの国じゃ、みんな適当なもので開けられますよ」
エレンだけの特技かと思いきや、そうでもないらしい。軽快な音がまたエレンの手の中で鳴った。
「さすが、ビールで有名な国だな」
「まあ、一番飲みますね。ワインも飲むけど、やっぱりビールですよ」
瓶を持ってごくごくと喉仏を動かしたエレンは、はあと満足げなため息を吐き出した。一つだけ出されたグラスはリヴァイ用らしい。とぽとぽとグラスの中をビールで満たす。
「俺はビールも飲むが、ワインやウイスキーも飲むな」
「ウイスキー飲んでるってだけで、すげえ英語圏っぽい」
「ビールやワイン以外に飲まねえのか? 他にもあるだろ、ドイツには」
「あー……他にも有名な名前もありますけど、オレのファミリーネームと被ってて照れくさくて飲んだことないんですよね」
「それって、イェーガーマイス……」
「あー!」
大きな声で遮った主は、頬をじわっと赤く染めている。
「そこまで有名だとは……友人にあの酒「エレン」って呼ばれててすげえ恥ずかしいの思い出して、って何言ってんだもう!」
「落ち着け」
また瓶をそのまま持ったエレンが、ごくごくと喉を鳴らす。瓶の中身は一気に半分まで嵩を減らした。
「ここって外で飲めないんですよね。びっくりしました」
「俺の国でも外じゃ飲めねえが……いいのか、法律的に」
エレンの発言に、リヴァイの目が大きくなる。ここも自分の州も、プライベートな空間やレストランぐらいでしかアルコールを摂ってはいけない。それがマナーであり法だと思っていたが、自国の常識は世界の非常識なのかもしれない。
「違法であることのほうが驚きですよ。あっつい日差しの下で飲むのが美味いのに……」
「家の庭なら大丈夫だぞ。バーベキューでもしながら飲めばいい」
「バーベキューのときのビールは美味いですよね。焼いたチーズとソーセージ食いながら、こう……」
エレンの酒がまた一気に嵩を減らす。ごそごそとレジ袋を漁ったエレンは、塩味の強そうなプレッツェルを取り出して口にぽいと放り込んだ。
「ビール足りねえかもしれねえ」
「足りなかったら、俺の分を飲めばいい」
「遠慮しませんよ」
「美味そうに飲んでる姿だけで腹が満たされそうだ」
どうせなら、酒だって美味そうに飲むやつに飲まれたいだろう。うきうきしながら冷蔵庫に向かう後ろ姿を見て心からそう思う。
「昔から、医者になりたかったのか?」
「親父が医者だったんです。昔は興味なかったけど、ずっと背中を見てたらいつのまにかオレも国家資格受けて医師免許取ってました」
簡単に言っているが医師免許はどこの国でも難関だろう。これだけ美味そうに酒を飲む男が、留学中に禁酒をするぐらいだ。努力を隠したいか、努力をするのが当たり前だと思っているか。
「リヴァイさんは?」
「ガキのころの夢か? ヒーローに憧れることもなけりゃ、妙な野望を抱くこともなかったな。高給取りにはなりたかったが」
「野望抱いてるじゃないですか」
「そんなの野望のうちに入らねえだろ」
話し込んでいるうちに、買ってきたビールがどんどんとなくなっていった。冷たく冷やされたビールが美味いと感じるころには最後の一本をシェアしている始末だ。酒の回し飲みなんて初めて経験した。
家族はどんなだ、恋人は、女の理想は。話しても話してもキリがない。離れがたい気持ちがリヴァイをさらに饒舌にした。
「……風呂に入って、寝ちまわねえと駄目な時間だな」
「まだまだ足りないんですが……そうだ、リヴァイさん」
しんみりと片付けていた手が、エレンの大きくなった声を受けてビクリと止まる。
「着替え持ってきて、こっちで入っちゃえばいいじゃないですか。一緒に夜更かししましょう」
「名案だな」
惚れた相手とまだ時間を繋ぐことができる。それ以上の僥倖があるだろうか。
「ここは片付けておきますから、ほら」
「すぐに戻る」
走り出したい気持ちをこらえて、一目散に自室に向かった。じわじわと近づくエレベーターを苛立ちながら待って、扉が開くやいなや滑り込んでボタンを連打する。焦燥感と充足感が混じり合って、変に興奮していた。
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